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【遅刻の言い訳】

わが中央線は遅延のデパートかってほどに毎日いろんな理由で遅延している。

 

最近はその遅延にも、いろいろと理由を説明しないと怒るバカがいるのか、それとも乗客の知的好奇心を刺激するサービスなのか、理由のバリエーションが増えて異様に細かくなってきている。自分が小さかった頃と比べると、天気予報と電車の遅延理由は、「そこまで知りたいって言ってねーよ」というレベルで細分化され説明されている。

 

電車にモニターがついて久しいが、だいたい電車のなかにモニターがあることに果たしてどれだけ意味があるのかもよくわからない。そして、遅延の理由はアナウンスだけでなく、都度このモニターに表示されるが、それを読んだからといって遅れている事実はなにも変わらない。乗り換える電車が遅延していると知れるだけでも、ありがたいか!

インフラに文句をいうのはよそう。

 

普段外国人留学生を教えていると、かならず出る意見に「日本の電車はなんであんなにうるさいのか。そして情報量が多い。電車が遅れるのは当たり前だし、理由がいちいち細かくてうるさい」というのがある。

電車が遅れるのが当たり前かどうかはその国の文化だからなんともいえないが、理由を説明されて「ありがとう」と思う外国人はあまりいないようだ。

 

 

こんな感じで出ている。

しかし、この表示をずっと見ていると、妙な日本語が増えたなと最近思うのだ。

外国人のような、日本語ファンタジスタが作った日本語だ。

 

ここでは

「〇〇は、車両故障の影響で、(全線運転を見送り、とか、30分の遅れが出ています、など)」

と書かれているが、

一番ぎょっとしていまだにそのインパクトが薄れないのは、

「線路内人立入」という言葉である。

 

線路内に人が立ち入った、というのは昔あまり聞かなかったが、この制度ができてから頻繁に起こっているような気がする。

酔っ払いが線路を歩いてしまうのだろう。

「線路に立ち入る」という発想があるのか!と、人々の脳にインプットされ、酔っ払いが酔った勢いでそのインプットされた潜在的な欲求で、立ち入る、という連鎖になっているのではないかと思ってしまうほどだ。

 

それを「人立入」と書いて「ひとたちいり」と読ませる変な熟語で表現しやがるのだ。

左右対称で、顔文字みたいで気持ち悪いこの三文字熟語(しかも送り仮名がないのも気持ち悪いのだ)は、まちがいなく電車用語から生まれた言葉である。

この感じだと、入間に住んでいる人間は、入間人。

プレゼントに人間が入っていた場合は、人間入。


こちらは「急病人救護の影響で」。

急病人が出たから遅れたのではなくて、

急病人を助けていたから遅れた、というニュアンスが「救護」なのかな。

それとも「急病人出現」という言葉の強さを避けかったのか。


 

こちらは「踏切内支障物の影響で」。

 

なんだろう、この肌感覚での違和感は。

踏切内に支障物があった影響で、となぜ言わない?



 

出ました! 「人立入」に次ぐ気持ち悪い日本語、「荷物挟まり」!

ニモツハサマリ……!聞いたことねーよ! 陰毛じゃないんだから。

まだニモツハサ家のマリさんだったらわかるんだけど、この造語のされ方には妙な気持ち悪さがある。語順も造語法も日本語らしくない。しかしれっきとした日本語になっているところが、日本語の懐の深さでもある。

 

百歩譲って「(ドアに)挟まった荷物の影響で」と言えないのか。

 

ここまで読んだ方はわかると思うが、

「〇〇線内での< X >の影響で」

という構文のテンプレートを用意して、Xに入るように無理に日本語を入力するからこうなるのだ。

 

つまり、これをプログラムした人間は、すべての遅延の理由が、名詞化できるという前提で考えていることがわかる。

さらにいえば、日本語の連体修飾節についての知識がなく、文の構造のなかで助詞「の」をほぼ英語のofと同様に扱っていることから、

文を構造的にとらえることには慣れているが、日本語学の知識に乏しい人間、

つまりプログラムの勉強に特化してきた人間、という像が見えてくる。

 

というのは、

「踏切故障の影響で」とか、

「停止信号の影響で」などと同列に、

 

「荷物が挟まった影響で」

「踏切内に支障物があった影響で」

「線路内に人が立ち入った影響で」

を扱えない人間だからである。

 

むろん「荷物挟まり」「人立入」「踏切内支障物」で意味はわかる。そのうえ文字数が節約できる。

むしろ「意味が通りさえすればよい」と「文字数をなるべく抑えたい」という欲が前景化して、ファンタスティックな日本語を創造していることに気が付いていない。

その証拠に、「ドアに挟まった荷物の影響で」を選択していない。というか「荷物挟まり」とて、理由としては説明されきっておらず、正式にはおそらく「ドアに荷物が挟まって、安全を確認できる状態にまでするのに時間がかかった影響で」なのだ。そういったニュアンスをすべて「荷物挟まり」という語で片づけようとしている。ドアへの影響は完全に後景化して荷物にピントがあっちゃってる。

この造語法でいくと、ハムのサンドウィッチは「ハム挟まり」だ。パンでハムを挟んだことよりも、ハムが挟まれてることが大事であり、挟むものはなんでもよくなる。フルーツサンドは、「フルーツにクリームをくっつけたもの挟まり」であろう。長くなっちゃった。

「洗濯挟み」ではなく「洗濯物挟まり」だ。

「高枝伐りバサミ」ではなく「高枝挟まり」だ。

しかし、こうまでして文字数を省略しなければならないかというと、そんなこともない。長くても3行くらいにおさまっちゃってるので、少々長くなってもそんなに問題ではない(現に別の表示はモニター二枚にまたがるものもある)。

 

「影響」という名詞には、タ形で連体修飾する「荷物が挟まった」とか「人が立ち入った」とか「急病人が出た」のほうが、日本語として「自然」だ。

しかし、この日本語は不自然だ!とクレームをつける人は、遅延の説明がないことにクレームをつける人よりは圧倒的に少数だろう。だからこうして日本語は新たな表現を獲得している。

 

非常に簡単な修正方法として

< X >の影響で

を、

< X >影響で

にするだけでいい。

「の」を消去して、X内に「の」がつくほうが自然なものとタ形のほうが自然なものを打ち込めばいいのだ。

それほど大変な作業ではないはずだ。

 

教えている留学生が「荷物挟まりで電車が遅れて遅刻しました」と言ったら「<荷物挟まり>なんて日本語はありません」と注意するところだが、こういう、必要に迫られて生まれたファンタスティックな日本語に対しては、「こういう事情があったんじゃないか」と上述のような妄想をすることで、無理やり自分の内なる感情を鎮めようと日々試みている。

新しい表現よありがとう、という気持ちで。

 

どこにも書くとこないのでここに書いてみた。

 

posted by: サンキュータツオ | ★コラム | 00:06 | comments(0) | trackbacks(0) |-
原田まりる『私の体を鞭打つ言葉』
 原田まりる『私の体を鞭打つ言葉』
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以前、『WOWOWぷらすと』でもよくご一緒した、原田まりる氏。
腐男塾というアイドルグループを卒業後、もともと大学などで学んでいた哲学の素養を活かし、このたび書籍を出版した模様。

まりる氏は漫画オタク、アニメオタクでもあり、BL好きということもあって話しも合う数少ない友人なのであるが、
ショーペンハウエルやベルクソンの話をできる女性ということもあって、
その存在の希少性は計り知れない。
アイドルの口から「ショーペンハウエル」とか出てこないよ普通!

というわけで、そんな自我の方が大人しくアイドルやっているわけはない。
もちろん、そういうアイドルがいても面白いのだが、本人的にどこかで区切りをつけたのだろう、ほどなくしてこういうことになった。

さらに驚くべきことにこの人は文章がうまい。
いや、自我のある人は表現という行為に対して昔から意識的なので文章がうまいのは当たり前といえば当たり前なのだが、なかでも描写が素晴らしい。
この本はサンマーク出版という、自己啓発でおなじみの出版社から出ているのだが、
自伝的小説として読むのが一番適正だと思う。

アイドル時代に暴漢に襲われたときのこと、恋人に猛烈に嫉妬すること、SとMを平然と語り、自然に具体的なエピソードから哲学の話へとシフトしていっている。
これは、過去の哲人と対話する女性が主人公の、小説なのである。

暴漢に襲われたくだりひとつとっても、
「浅黒く焼けた大きな手を口に押し当てられ、息のできない状態にされていた。逞しい骨格と、独特の匂いから、すぐに日本人ではないことはわかった。
 私はもがきながら必死に抵抗した。
 口に押し当てられている手に噛みつき、相手がひるんだ瞬間を見計らい、
 「誰かー! 助けてー!」
 大声で助けを求めた。
 すると男は驚き、さらに力強く私の首を締め、黙らせるために舌を強引にねじ込み、口を塞いできた。私はさらに抵抗し、思いっきり相手の舌を噛む。攻撃は効いたようで、相手は体勢を崩した。
 その瞬間、私は相手の急所を蹴り上げ、マンションの外へ逃げようと急いで立ち上がった。立ち上がった瞬間、男に再び後ろから羽交い絞めにされる。マンションの外へ引きづられ、再び押し倒される。しっかりと覆いかぶさられ、身動きの取れない状態で、口を塞がれて息ができない
 頭の中が、視界が、意識が、かすんでくる。」
(p.72「本当にあった怖い話」から抜粋)
という緊張感あるシーンの文章。
センセーショナルなお話かもしれないが、文章はいたって冷静。

なにがすごいかって、まず過去形と現在形の混在。
最初は過去形で状況を描写しながら、「私はさらに抵抗し、思いっきり相手の舌を噛む。」で突如現在形が顔を出す。
ここからは動画再生されるように、徐々に現在形が優位に立ち、再現VTRはフラッシュバックするよう。
「羽交い絞めにされる。」以降は、「押し倒される」、「息ができない」「かすんでくる」とすべて現在形で描写される。
これは明らかに意識的であり練達ぶりを感じさせる。これは個人文体で代筆ではない。
「誰かー!助けてー!」のあとも、普通なら「と、大声で助けを求めた。」と「と、」を入れるのが普通だが、ここでは省略されている。「説明」ではなく、「状況の再現」に比重が置かれているので、事実を時系列に羅列することで緊迫感がでる。
「頭の中が」「視界が」「意識が」という「が格」の畳み掛けは、マンガ的手法と言ってもいい、じょじょに絵が黒くなっていく瞬間を3分割に切り取って描写している。
「立ち上がった。立ち上がった瞬間、」も、普通は「その瞬間」と引き継ぐが、ここは音楽性というか、リズムと「動作の羅列」を優先して「立ち上がった」を反復する。

 
だから小説的なのだ。いたるところに隠し切れない描写センスを感じさせる。本編の内容とは別に、またこういうところで読み手を愉しませてくれる。少なくとも私はそういうところを重点的に楽しんだ。
 
この本は面白い!
それは原田まりるがなんとも説明しにくいパーソナリティであり、説明しにくさとは同時に「唯一性」でもあるから、当然その人が語るものは面白くなるからだ。
次は原田まりるの小説を読みたい。
 
ところで、また仕事をしたいものである。

2014.11.8
posted by: サンキュータツオ | ★コラム | 06:20 | comments(0) | trackbacks(0) |-
あまちゃんの今後(妄想) と「萌え」の問題

『東京ポッド許可局』でNHK『あまちゃん』の話をしたついでに。
勢いが止まらないので、なんとなくの今後の妄想を。
ちなみに、
本放送では編集してくださっていた、「視点と感情移入のあり方」についてのアニメ『花咲くいろは』との類似、ドラマ『モテキ』『みんな!エスパーだよ!』との相違に関しては、
月曜日配信のポッドキャスト版でノーカット版を配信してくれるそうです!
ありがとうTBSラジオ長田局員!
地上波とポッドキャスト、それぞれの利点を活かしたアウトプットをしてくれたわけです。
たまに長くなったときとかはこれはいいかもしれませんな!

現時点での今後の妄想!
エヴァにしろあまちゃんにしろ、終わるまえにあれこれ妄想しておくと、脚本のすごさが体感できるので、いい。こういうのはみなさんもやってることだと思います。
こうするのかー!みたいな。
リアルタイムでみることの楽しさって、ああなるんじゃないか、こうなるんじゃないかってことを自由に考えて、作っている人の考えをトレースしたりしていく作業だと思うので、いまは視聴者としてそこを満喫したい!
そして、気持ちよく裏切られたいの! そういう経験がしたいの!

*****

宮本信子さんの、三人称叙述での心理描写
(〇〇は、<こころの状態>でした、のような形の文)
は、当初から気になっていたので、鹿島さんの話を聞いて、なるほどなあと思ったのでした。
とくに、宮藤官九郎さんのコラムの話(ナレーションに関するもの)は知らなかったので。

放送開始直後から、
立ち入った感情表現まで三人称が語る、ということは、全知の視点だから、人間ではなく神か、霊だな、と思ったわけです。

声は宮本信子さんだから、後者、という仮説を立て、そう思い込んでこのドラマを見ていました!

たとえば、学校での一幕。種市先輩とおなじミサンガをつけることになったのを、先生が騒ぎ立てたとき。

「『うるせぇデブだなあ』
 心のなかでそう毒づきながら、
 アキは喜びを隠せませんでした。
 『もしかしたら、種市先輩も好意を抱いているのかも』」


「うるせぇデブだなあ」「もしかしたら、種市先輩も好意を抱いているのかも」=アキの心の声の代弁(同一化):憑依型

「心のなかでそう毒づきながら、アキは喜びを隠せませんでした。」=アキを外から見た語り(対象化)でありながら、感情形容詞(喜び)を叙述する:神の視点

この混在。これが守護霊的視点。単なる語り手ではない。
まるで落語家のように、ときとして人物に憑依して語るのである。

また、

「残念!時間切れです。15分て短いですねー。明日、ちゃんと聞きましょう。」
 
などと言ったりする。急にメタな表現が出てくる。
この「隠しカメラを共有している感じ」こそが、守護霊的視点といいますか。
アニメですとナレーションではなくてカットやカメラ割りで表現するところ。

そうなんです、最初からお客さんを意識した語りなんですよね。
ホントに落語的なんですよね。
これがのちのち「私はここで死んでしまっていまこうして漂ってるわけですが」とか本当言わないことを願う!
(上記2例、5.14加筆)


一週目の金曜あたりから、私は完全におばあちゃんは死んじゃうのかーと思いながら見ていたので、その時点からもうウルウルしながら見ていたんですが、そこがほかの人と視聴の仕方がちがったようです。
実写のドラマに関してはだれとも意見交換しないというアニメヲタクの悪い癖で、だれとも感想戦を行ってこなかったんですよ。

すべてのシーンが「回想」だと思って見ていたんです、私(正確にはどの放送回も「回想」ではあるはずなのですが)。

いま、蟹江敬三演じるじいさんが出てきて、
「死んだと思った人が生きていた」
「年間10日しか会わなくても、生きていれば安心」
ということが提示されたので、
これは、
のちのち
「死んだはずの人がまたじいちゃんのときのように、素知らぬ顔で帰ってくるのではないか」
ということと、
「一日も会わない状態なんだ、と思い込むことで、死んだことをなかなか受け入れられない」
ということを暗示しているのではないかなと。
そんな気がするのです。

この世界で、
おじいちゃんにしろ、お父さんにしろ、
本来なら死んだり別れたりして存在が「欠けたもの」として描いたほうが自然なものを、なぜ「うすうす存在するもの」として描いているのか
それは、
「死」の影を極力排除するためである、と考えると説明がつくんですよね。
また、「うすうすでも存在することの喜び」なのです。
どんなに離れていたり会わなくても、この世界に生きていること、それを実感してっていうメッセージにとれる。

現状、種市先輩は、東京に就職が決まっているので、「東京」「東京の男」を象徴する存在。
そして、ユイちゃん(橋本愛)は、「アイドル」そしてやはり「東京」を象徴する存在として描かれている。

たぶん、アキちゃんは東京に行く。アイドルになる。
この番組の「アイドル」というテーマは、もっと掘り下げると、
「目的のためのアイドル」なのか「手段のためのアイドル」なのか、ということだと思う。
いま、母の過去が明らかになることで、
海女であること=祖母との絆
アイドルになること=母との絆
というように描かれている。

東京編はおそらく、
アキちゃんは「手段のためのアイドル」になるのだが、ユイは「アイドルになりたい」ということが目的化しているので、意外となんでもやるし、意外と空虚なのである。現時点ではユイちゃんのほうが「大人」として描かれているのだ。

しかし、おそらくユイちゃんは、アキちゃんを通して、「目的ではなく、手段としてのアイドル」に目覚めるというプロセスを経る。そしてユイちゃん視点でも「少女の成長物語」として読めるものになるのではないだろうか(ユイちゃんは東京でアイドルになったら、スキャンダルだけはないように気をつけてほしい)。

2011年以前と以降で、いろいろなものが「ひっくりかえる」。
それが私の見立てだ。
2011年以降では、ユイちゃんは「手段としてのアイドル」に目覚めるのだ、アキの影響で。ここで関係が逆転する。

いま、「東京」は将来的な場所として暗示されている。
それは、2008年という時代設定から明確である。
現時点では、北三陸でのアイドル的活動は2009年3月まで。
アキは高校2年なので、最長で2010年3月までは北三陸にいるはずである(上京が早まる可能性も充分ある)。
2011年には、アキちゃんは高校を卒業して、東京にいる。19歳から20歳になるころに、2011年を迎えるのだ。
しかも、海のシーズンではない3月は、故郷をアピールする手段としてのアイドルになっていることだろう。

そこで震災(戦争的な凄惨さを暗示するもの)が起こる。
地元に帰ると見たこともない光景が広がる。
ばあちゃんはいない(もしかしたら母も)。
そこに、いつもは故郷にいない、父とおじいちゃんと、一緒にいく
ここでも、「うすうす存在していたもの」が急に存在感を発揮するという、
「ひっくりかえし」があるかと思う。

「ひょっこり帰ってくるのではないか」

そんなことを思いながら帰りをずっと待ち続ける。
海にも入っていけなくなってしまう。
海女も絶滅する。
いまいる、海女さんたちの「サニー」感ハンパないでしょう?
あの人たち全員死んじゃうんじゃないかなと(美保純さんだけは生き残りそう。悲しい顔が似合う女優さんだから)。


「好きな人のそばに、1秒でも一緒にいたい」
このドラマのテーマはここだ。
「愛する人のそばにいること」。

悲しい時間が訪れたとき、いまの「幸せな光景」はかならずフラッシュバックするシーンだらけだ。
もう今日のお誕生日パーティの「勢ぞろい感」とか、私はもう半分くらい死んじゃうという思い込みだけでこのドラマを見ているので、涙です。ユイちゃんも先輩も、お父さんもおじいちゃんもいたから。意図的に、「全員揃い」の状態を作られているから!

(あんべちゃんだけいないけど、実はあんべちゃんは後半、避難先になる場所のひとりとしてのフリなのではないか?
 
 すべての人間関係が動き出す前の、事情を知らない人=楽な人として、描かれるのではないか、と邪推したりもする)
 
 
 

このシーン、もう何度もこすられるくらい「幸せの絶頂」として、のちのちフラッシュバックされるのではないか?
そんな恐怖心で見ているわけです。

「会いに行ける」と思って安心していてはいけない。
「会いに行かなきゃいけない」、そういうことである。
「会いたいときに会いに行くべき!」、このドラマのテーマはまさにここにあるのではないかと。

そして、アキちゃんは立ち直り、また故郷のために原点に戻り、海にもぐれるまで、がんばる。
そこで少女は成長する。

ヒロシも実はここで成長する。夢やぶれた東京にリベンジしにいくのではなくて(マネージャー志願として再上京するのではないだろうか)、むしろ震災があってから、逃げてきた故郷に帰る作業。それが小泉今日子演じる春子に通じる。だからあの二人は分かり合っている。
頼もしく、ネットを駆使して情報収集し、関係が悪くなっていた父親を探したり。
ヒロシは「有名なお父さんの子」として存在感のなさも、失恋も、震災も乗り越え、立派な男になるのだろう(アキちゃんか、東京で出会う女性あたりにうまくアプローチして達成してもらいたい)。ここでも「ひっくりかえり」が起こる。

と、ここまで妄想したのであるが、やはりアニメユーザーとしてこういった一連の「死亡フラグ」には敏感なもので、
第一話でこういう思い込みをしてしまうのは病気であろうと思う。
完全に思い込みなのだ。クドカンがこんなシナリオにするわけがない。

『けいおん!』の魅力は、守護霊的なカメラ位置と、「予知不安の解消」というストレスレスな部分にある、と、いろいろな媒体で語ったり書いてきたりしたのだが、
『あまちゃん』は、守護霊的視点をもつナレーションと、震災がくる、という大前提での「予知不安」が約束された世界観だ。

だから、私がのぞむのは、
2011年3月10日が、このドラマの最終回になる、ということだ。


もちろん、
万が一の可能性として、
宮藤官九郎さんが、たまたま落語っぽいナレーションやってみようかなあ、
とか、
シーンに変化つけたいから、地方と東京を行き来させようかなあ、
とか、
お父さんとおじいちゃんいたほうが変化つくし1週ずつもつなあ、
とか、
そういう考えだけで書いている可能性もゼロではありません!
(むしろそうであってほしい! )

もうさー、打たれ弱いからさー、私。耐えられないと思うの悲しいやつ。
大学か、アイドルか、わからないけど、アキちゃんが休みを利用しておばあちゃんに会いにきて、東京に帰るのが3/10。
そこで満面の笑みのおばあちゃんと、三陸の美しい海。

最後の5分くらいで、「2年後」というテロップが出て、
そこでまた元通り美しい海でありながら、海女として地元にもどっているアキちゃん。
最後に、あの誕生日のシーンとか、みんなで楽しくやっていたシーンがフラッシュバックして、青空にパンする。もうそれでいいじゃないか!

それが、オタクの私ののぞむ最終回だ!

……あまちゃんなのは、私なのだろうか。

地震はいろいろなものをひっくりかえしたが、それでもそれによって成長していく人たちがいる。そういうポジティブなドラマになるはずなのだ。

オタクを代表するような気持ちはさらさらないが、
重いのやだよこのドラマ。オープニングの曲だって明るいから、きっと暗い方向にはもっていかないと思うのだ。
そうあってほしい!

2011年3月10日が最終回説。

また予想変わったら書いてみる!


オタクっていうか、私は弱いなあ。

妄想を、原作から豪快にはずしにいくのが私の傾向なので、本編とちがっていても決して怒らないように。
ちがうほうがいいに決まってるんだから!

会いたいときに、会いにいく。そばにいる。
そう、
ちょうどいい機会がある。

7月8日、「会いにいけるおじさん」こと、我々東京ポッド許可局が、赤坂ブリッツでライブをやります!

オレたちと赤坂と東京ポッド許可局 〜屁理屈ブリッツ〜

宣伝かよ!
……自分のブログなんでいいじゃないですか。


*****

ちなみに、
「心の声が聞こえる」ことと、「視点人物」であることは別です。
アキちゃんを追っていても、心の声はすべてなつばっぱなので、語り手が宮本信子さんですよね。
なつばっぱがいないシーンでも、
宮本信子さんから見た、「アキちゃん」を叙述している、ということは、それだけでもずいぶん立ち入った叙述です。が、時として「心の声」まで代弁しているので、語り手の職能は完全に踏み外しているのです。
これを、狙ってやっているからすごいと思います(無意識か意識的か、という問題ではなくて、そう書いている、ということです)。

だから、構造として「落語」に近いです。
ときとして登場人物に憑依して「再現」するという。
だから、『あまちゃん』は落語的演劇空間のなかにあると私は思っています。
要所で語り手が顔を出すという。「なんでお前が知ってるの?」とはだれも思わない語り手。
非常に日本的な叙述の立場です。



人物の言動と、「心の声」がわかってしまうと、
そこに「感情移入」というか「萌え」は発生しにくいです。
なぜなら、
「萌え」は行間をうめる作業であり、
「こういう行動をしたということは、こういう考えがあったのだろう」
という、その「考え」の部分を間接的に知る、
ということに、「わび・さび・もえ」の「味わい」があるからです!
受容者が積極的にかぎとり、味わうものだからです!


言動と心の声の、両方がわかることは、「共感」はあっても「萌え」はないです
「この人と一緒だ!」「わかる!」はあっても、観察的視点でその人物を味わう「距離感」はなくなってしまうのです。

「萌え」には距離感が必要なのです。
その「距離」が、「覗き見」であり、「行間」であり、「間接性」であり、「守護霊の気持ち」なのです。
「他者である自分」を強烈に意識し、人物を対象化して味わう作業こそが「萌え」なのです!!



私が『モテキ』を受容できなかったのは、まさにこのすべての人の言動と心の声が聞こえたからであり、
『みんな!エスパーだよ!』をドキドキしながら見れるのは、部分的にしかそれがわからないからであり(しかもそれは主人公のコントロールによる)、
『あまちゃん』をアニメ的に受容できるのは、アキちゃん自身のモノローグや語りすぎ感がないからなのである。「距離感」をもって人物たちを眺めることができるからです。

もっというと、宮本信子ふんするなつばっぱ自身にも「萌え」られるのです!
なぜなら、彼女のナレーションは、彼女自身の「心の声」はあまり代弁していないからです!
ことの顛末の説明や、他の登場人物の心理は語っても、「自分語り」はしていないからです。

これが、アニメになると、
「物語る」という構成のなかで登場人物がナレーションするのはきわめて稀な手法で(『涼宮ハルヒの憂鬱』は、キョンがナレーションしていたが、実はキョンが一番の萌えキャラだということは、やはり時間を経てようやく自覚されたことであった。それはやはりナレーションをキョンがしていたからだと思うのだ)、
そこはカメラ割りや演出で「物語る」のですが、そこが私にとっては品のあるメディアだなと思うところなのです。

落語にしてもそうなのですが、あまり語り手が押しつけがましくない、という。
アニメと落語の中間に、『あまちゃん』はある。宮本信子という「語り部」によって。

視点と叙述のあり方、そしてそれによってどこに「行間」や「空白」を作るのか。
大学院でも表現論の研究をしていると、視点論はつねに議論されるのですが、こういった二次元、三次元のドラマにも、おなじことがいえるのだなあと実感しています。


5.14加筆
(ナレーション具体例)

posted by: サンキュータツオ | ★コラム | 03:49 | comments(3) | trackbacks(0) |-
お笑いポジション論

バスケットでは役割を番号で呼ぶ。PGは1番、SGは2番、SFは3番。というように。
お笑いもその役割を番号で分類してみてはどうかと思っている。

1番=司会、まわし
2番=トークで走る主役
3番=リアクター、コメンテーター

基本はこの3つの役割。3番はお客さん代表でもあるし、当意即妙でおもしろいことをいう人でもある。

4番=アクセント、ピンポイントリリーフ
5番=スペシャリスト

4番はキャラクターの強い人、キャラ芸人、あるいは体を張る系の人。5番はなにか特殊な属性を持っている人。
米粒写経は居島さんが圧倒的な2番。2番はやはり個性が強い人が存分に魅力を発揮するポジションであるべきだ。
1番、3番は、コンビでいうといわゆるツッコミ役が担うことが多い。3番は矢口真里さんなどが入りやすい(芸人ではないけれど、番組の座組みという意味では)。
東京ポッド許可局では、1番タツオ、2番マキタ、3番鹿島というのが基本のフォーメーションだろう。
回によって1番マキタ、2番鹿島、3番タツオ、1番鹿島、2番タツオ、3番マキタ、もありうる。100回を超えたあたりから考え始めたのはこういうことだった。

私は5番を求められることが多い(アニメだったり日本語系だったり国語辞典だったり)。

いわゆる一発芸的なものや、ネタ番組で出てくる人たちは、
4番からはじまってバラエティのなかで自己紹介的にネタをやりアクセントになる。
世に知られるようになると2番になってトーク力を試される。
売れると安心感があるから3番で起用される。
1番になると安泰だ。さんまさんは1番2番を一人で2役やっているからバケモノである。

ネタでの職能とバラエティでの職能が、乖離している現状を考えると、テレビバラエティを「ボケ」とか「ツッコミ」とか「トーク力」などという言葉で説明するよりは、
上記のようにポジション別の考察をして分類していくと面白い。

サッカーやバスケや野球、それぞれのスポーツにあるこのようなポジション的概念で、
そろそろバラエティ番組を語る、共通のモノサシにしてみてはどうだろう?
私は自分でこれを考えて、おもしろいと思った(自画絶賛)。

posted by: サンキュータツオ | ★コラム | 17:12 | comments(0) | trackbacks(0) |-
お笑いの才能
お笑いの才能って、音楽の才能なのではないかと最近思うのである。

それだけ。

posted by: サンキュータツオ | ★コラム | 00:05 | comments(2) | trackbacks(0) |-
作家の最初と最後 :WOWOW「七人が語る、オレたちの黒澤明」
少し前に、WOWOWの番組企画の一環で、黒沢明作品について語る機会があった。

七人が語る、オレたちの黒澤明
おしゃれなデザインのサイトとなっておりますのでぜひ。

いつも「WOWOWぷらすと!」に出演しているメンバーなのだけれど、この企画、おもしろかったので読んでみてほしい。
黒澤明映画、みなさんはお好きでしょうか?

私はこのなかでは『まあだだよ』について語らせてもらいました。
『まあだだよ』、駄作との誹りもたまに聞きますが、私は本気です。
こんなに中身がなく、絆を描いた作品はほかにないと思っています。
むろん、内田百旅イというのもあります。いろいろなミラクルが重なってこの作品、好きなのである。

私は、あらゆる作家において、最初の作品と最後の作品というのは、もっと注目されなければいけないし、ほかの作品とは少し意味合いがちがうものだと思っている。
漱石においては『吾輩は猫である』と『明暗』。
みなさん、この二作品、最後まできちんと読んだことあるだろうか?

なにかを作る側にしてみたら、自分がなに作ってもいい状態までいったら、晩年にいくにしたがって、高いところ高いところにいくと思う。
世に人々に「駄作」だといわれるくらい、理解を飛び越えたところにいく場合もあるわけで、でも、年をとってからそういうものを味わうと、いままで見えてこなかったものが見えるはず。

どうかみなさん、『まあだだよ』見てみてください。
ものすごく、「不自然な自然」がそこにあり、「血ではない絆」がそこにあります。
これは、黒澤明という作家の、生涯のテーマだったとも思うわけです。

ついでに、『吾輩は猫である』と『明暗』もよかったらどうぞ。


最初の作品と最後の作品。もっと注目しましょう。

2012.08.27
posted by: サンキュータツオ | ★コラム | 15:00 | comments(0) | trackbacks(0) |-
バナナミルク

この夏セメスターで、韓国の学生が、国ではバナナミルクが頻繁に飲まれているが、日本ではどうやたそうではないらしい、
ということを言っていて、たしかにそんなに日頃バナナミルク飲まないなと思ったら、
なんだかバナナミルクを飲みたくなって、そうこうしているうちに、売られているバナナミルクを全部飲みたくなってきた。

なので、この夏は目につくバナナミルクを手当たり次第に飲んでみた。

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みなさんが一番よく知っているのは、伊藤園のバナナオ〜レであろう。「〜」のあたりに、缶飲料として自販機に並ぶ自負が感じられる。
伊藤園自体の自販機が少ないうえに、あってもバナナオ〜レくんがいなかったりして、はぐれメタルっぽい存在感もたまらない。この小ささで、以外にも果汁1パーセントかよ、とツッコミたくなるのではあるが、あると買ってしまう。
統計によりと、東武東上線沿線とか、私鉄沿線の伊藤園自販機に出没率たかし。

味わいはいたって普通。だが、飲み込んでいくとこの甘すぎず薄すぎずがなかなかの味わいだということがわかってくる。


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森永さんの贅沢クラブ、バナナミルクは、最近JRの駅でよくみかけるであろう。
これがうまい。
うまくて何度も飲んでいくと、味が濃く感じられてくる。
贅沢は、たまにするからよいのであろう。

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キッコーマンの投入シリーズのバナナ版。
これもバナナミルクにかろうじてエントリーしてみた。
果汁4%とわりと多め。だが、豆乳のソイ感もあって、非常に口あたりがよい。
もう少し甘くあってほしいなと思ったりもするが、毎日飲むならこれくらいの味付けがベストかもしれない。
コンビニのバナナミルクの覇者である。出没率が急上昇中。


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個人的に一番好きなのは、メグミルクの「ばななオーレ」である。
字余り気味に「オ・レ」になっているのが、なんともいじらしい。
これうまい!
適度に頭の悪い甘さと、後をひく清涼感がたまらない。
こいつは、スーパー銭湯出没率高し。風呂上りにおすすめの一杯である。

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明治の「オ・レ バナナ」。「私ばバナナです」という意味っぽい感じ。ウナギを注文するときに、「私はウナギです」と表現できる日本語の謎の文を、業界では「ウナギ文」と称するが、「オ・レ バナナ」もウナギ文である。
「やさしい甘さ」を謳っているだけあって、こちらの甘味調整は、豆乳支持派にはおすすめ。
このサイズも、大人なら2本買って飲みたいと思わせる、小憎らしいサイズである。
こやつはなかなか出会えない。

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サイズ感で一番大きいのは、100円ショップなどに並ぶバナナラテ。
これを目にすると、いままでのバナナミルクがなんであのサイズであの値段なんだろうとバカバカしくなるが、冷蔵庫にこれが入っているとバナナミルク中毒者はたまらないであろう。
ただし、甘い。

自由研究、バナナミルク編でした。
同一の機能の多彩なバリエーション。

バナナミルクにも、大量消費に必須のデザイン化というモードがあることを思い知った夏である。

あとは、ご自宅のミキサーで、氷、牛乳、バナナで、お好きな自分だけのバナナミルクを追及していただきたい。

ちょっとバナナ好きになった。
私はなにをしていたのだろう。

posted by: サンキュータツオ | ★コラム | 16:37 | comments(1) | trackbacks(0) |-
★画面越しに見たTHE MANZAI 2011 〜「1番おもしろい」とはなにか〜
画面越しに見たTHE MANZAI 2011
 〜「1番おもしろい」とはなにか〜


「THE MANZAI 2011」、終わりましたね。お笑い業界の年末最後のネタ祭り、といった感じで、
私も生中継では見られませんでしたが、録画で見ました。
同業者として、見なければなりません。

演出面の工夫からシステムに至るまで、M-1と比較して、バラエティー色の強い番組にシフトしており、フジテレビさんの安定感を見たような気がします。

とくに、評価方法について、
各コンビに点数をつけるという方法は、一見客観的のように見えて、かなり出順に左右される「相対評価」的な側面が強いため、
「4組みるごとに、そのなかでの1番を決める」という方法は、短期的まとめのなかでの相対評価、という意味で、むしろ気持ち的に割り切れるシステムだったような気もしました。
むろん、そこでの投票に一切疑問がない、という方法は無理なので、「そうかなあ」が出るのはお笑いではなくてもこのようのうな芸術点を競う競技ならむしろ当たり前です。そういう意味では、そういう不確定要素も含め、M-1よりも公平性が出たと思う。

ダイノジさんが「国民ワラテン」というシステムの試用として登場しましたが、
これも兼ねてからトップバッターの前にネタやる人がいればいいのに、という私の妄想が具現化したかのような機能を果たしていて、ものすごく練られた構成だなあと思いました。

たけしさんと爆チュー問題に関してもそう。
細かいことは、
東京ポッド許可局でお話したので、良かったら聴いてください。
ちなみに2時間あります。ハンパなミーハーには聴いて誤解されたくないので、しっかり誤解なく聴いていただける覚悟のある方に向けた時間。

以下、ツイッターでつぶやいた、各コンビの感想に、「補足してまとめ」をしたいと思います。
何度もお断りしますが、これは個人的感想ですので、意見が違うからといって、怒ったり批判したりするのはご自由ですが、私にぶつけないでいただきたい。
客観的な批評は、ブログなどではいたしません。
おもしろいとかつまらない、という二元論ではない、感想というのもあっていい。ネタの分析は、個人的にやります。

もう、いろいろな人がおなじことを言っているかもしれませんが、すみません、チェックをする時間がなく。かぶりがあったらご容赦ください。


【1】囲碁将棋。
好き。個人的にはずっと見たいと言い続けてきたコンビ。
トップはとれない芸風かもしれないが、こういう人たちが出てこないと、似たり寄ったりのネタになってつまらない。言葉選びやリズム感が適度。これはすごく重要なことだと思う。理屈っぽさも最高。
まだまだ見たい。とくにこの人たちのスピード感、早くもなく遅くもない、このスピード感が、この大会では一番重要だったのではないかなと思いました。
トップを志願した心意気もよいと思う。自分たちのことをよくわかってるのだなあと。
「ネタ合わせサボった」というメタな動機付けはいただけない。「待ち合わせ遅刻した」でいいじゃん。なぜこの漫才が、事前に用意されたものであることを、序盤にわざわざ印象付けなければならないのか。なんかここちょっと残念だった。個人的には、ここは感覚的な部分なので。


【2】チキチキジョニー。
タレント性ものすごい。こういうコンビは、勝ち負けじゃない。
コンテストという品評会に、商品として陳列された事実が大きい。一度見たらこういう商品は忘れない。二度ネタをやる必要もない。ツッコミの説得力。古典的だがそれがいい。
メガネのいいズレ方をした、あれも何度かは練習しているんだろうなあ。

【3】ナイツ。
従来の言い間違いスタイルに、身体性も加え、音ネタ。
しかも、展開的に、「ひとつのキーワードにひっぱられる」、というブロックを用意するという進化もみせた。
このスタイルの可能性は無限だ。
何度観てもこのコンビのネタは世紀の発見。文句なし。すごい。
ネタの重厚さも、縦軸のかぶせを充実させ、あまつさえボケの精度も高い。何度もいうが、おもしろいtかそういう以前に、このシステムの発見がすごい。オーソドックスタイプの漫才との比較になるのなら、そこを評価しなければならない。

【4】磁石。
うまい。うまい。うまい。うまい。うまい。うまい。おもしろ。うまい。うまい。うまい。うまい。うまい。うまい。の比率。
それはああいう結果になる。彼らはなにも悪くない。
彼らが2位になるという予選の審査基準と、本番の審査基準。彼らが、何年もM-1準決勝で終わっていたのは、ああなることが予想できたからではなかったのか。テレビ越しに残せるものを作らないと、厳しいんだよなあ。
とはいえ、この人たちは、タレントとしてものすごく器用で使い勝手が良さそう。ボケの永沢さんは愛嬌あって好き。
無個性コンプレックス。

【5】 Hi-Hi。
今大会MVPかつ本年MIP。序盤のいい加減さとスピード。後半のぐずり感。味わい深い。
イリュージョンぽくもあり。「いい加減」というボケが最近少なすぎる。また、この「いい加減」は、ズラしではなくて、言葉に、さらに言葉を付加させるタイプの笑いのなので、なかなかロジカルに開発している人がいない。
「くだらない」という質の笑いを提供しているコンビは少ないなかで、テレビ越しの視聴者にも伝わるテンポだったと思う。
気持ちいい戦い。個人的にすきなコンビである。

【6】テンダラー。
このコンビとウーマンラッシュアワーだけは、2本目のネタを見たかった。
とにかく、一番印象に残ったし、全編通して唯一声に出して笑ったのだった。笑わせられた。力わざで。
「顔、顔!」とか、「なにそのボケ」などの、漫才におけるメタな表現の一切ないツッコミの新鮮さとカッコよさ。これでいいの漫才って。これ!
メタなんて、パワーがあれば必要なし。小手先芸に走るメタ漫才が、彼らの前には小さく見える。
漫才を、芸術ではなく、「演芸」のままでいさせてもらうには、こういう存在が絶対必要なのだ。
芸術になった瞬間、大衆芸能は死ぬ。

【7】スリムクラブ。
「資格」と「死角」の勘違いのところでウケてたのに、「そっちの死角じゃなくて」でもウケるのはどういうことなんだろう。
瞬時に理解できた客と、理解できなかった客がいるということだろうか。あれほどのネタのスピードで、瞬時にそれを理解できなかった客がいるとしたら、そのお客さんは、最初のボケをあまり理解せず、フレーズのおもしろさで笑っていたということなのだろうか。
なにせあの会場にもそれほど鈍感な人がいたということになる。この漢字のちがいを、頭で考えようとはしていないので、学天即などはウケるはずがない。
ただ、内間さん側では、そういうこともわかって、「そっちの死角じゃなくて」とわざわざ言っているということは、お客さんを信用してはいけないということをよくわかっている。
このコンビの味はよく出ていた。ただ、やりながら演者が笑顔だと、効果は半減するタイプのコンビなのかなあ。「確信犯です」と言われているような感じがして、安心してしまう。もう少し「こいつやばいんじゃないのか」という危なっかしさが、わかってはいても必要だったと思う。

【8】ハマカーン。
ゲスの極み。よく練られていて工夫もあり作りこみのキャラもいい。だが、お笑いファンには知られていても、テレビ越しでは初めての人も多い。そこが、「ゲスの極み」で「キャー!」という待ってました感の空気の違和感。テレビで見て良かったと思った。
これは、M-1でも起こっていた問題なのだが、予選の段階から放送本番に至るまで、観覧客が「お笑いファン」であることと、実際画面の向こう側にいる人は「1年に一度しかテレビで漫才をみない」という人であること、ここにものすごい乖離がある。
この両者を満足させられるシステムとネタが求められている。
タレント性は示したわけだし、2本やる必要のないところでもあるので、プレゼンテーションとしては最高だったろう。

【9】学天即。
難しいネタやったなあ。「想像させて、そこでズラして笑わす」というのは、単なる言葉遊びとはレベルがひとつ上だけど、漢字とかは想像しずらいのかなあ、あのスピードではついてこれない人も多かったのかなあ。

【10】博多華丸・大吉。
出てくれてありがとう。ちなみに「乾杯の挨拶」は私どももネタがあるので、しばらくできないなあという、個人的なガッカリだけ。
すごいよホントにうれしい。
漫才で「遊んでいる」感じが、たまらないのである。大人がふざけている感じ。
この感じは、ベテランにしか出せない。でも、事前に用意されているネタだとみんなが知っているなかで、真剣にやっちゃうことと、彼らのようにふざけている感じと、どちらがリアリティがあるかといったら、私の場合は後者なのだ。

【11】アルコ&ピース。
コント屋的な漫才の解釈。スーパーマリオの曲にキザな歌詞、ストーリー展開。
ツッコミの、セリフがない時間のリアクション。
ひとつのボケを大きくとり、そのボケのフレーズのなかで笑い所を作っていく。
囲碁将棋とおなじく、15組いるなかで、こういう人もいてほしい、というあたりにちゃんと入った感じ。

【12】パンクブーブー。
1本目は2010年、2本目は2009年のM-1でのフォーマット。精度は高い。コンテストの戦い方を知っているなあという。

【13】エルシャラカーニ。
同志みたいな感じで、熱を入れて応援。
「あ、イルカのネタを選んだの!?」と思った。「おもしろい?」「聞いたらアカン」のセットをあと2箇所くらい聴きたかった。このコンビについては、今月末のゲットナビで触れる。
4分の使い方の難しさと、裏を返せばほかの出演者の4分の使い方のうまさを実感した。

【14】千鳥。
2本目のネタは、せめて電話以外のものでできなかったのではないだろうか。展開力はさすが。
ホントどうでもいいのだけれど、智弁和歌山は、高嶋監督の方針で、一学年10〜15人だから、野球部は80人は絶対にいない!とか、そういうことを思った。ホントにどうでもいいけど。
おそらくそんなこともわかって言っているのだろうが、気になっちゃってネタどころではなくなった。たぶん、ネタみて「あの子かわいい」とか「衣装がどうの」とかいうお客さんの気持ち、あれに似ているのかなあ。

【15】ウーマンラッシュアワー。
2本目、どうしてもみたかった。
バイトリーダーのネタは、お笑いファンには有名で、視聴者にはまったく初見という、またやりにくい状況。ハマカーンとおなじような状況である。
しかし、千鳥以上ではあったと思う。ここばかりはなんか疑問が残るのだが、そんなことを言っても仕方がない。とにかくいいもんみた。

【16】銀シャリ。
ツッコミフレーズ増量により、ジャブでのパンチ力を向上させるプログラムできた。さすがであった。やっぱこのコンビのボケの人は愛嬌ありまくりの顔ですき。なぜか母性をくすぐられる系。ツッコミが、矢作系から上田系へとシフトした印象。


以上、各コンビの感想。
重ねて言いますが、「東京ポッド許可局」でのお話に、「補足してまとめました」。ネタ以外の部分(演出であったり、審査員と審査であったり)が、今大会のメインでしたので、それは許可局本編をお楽しみください。


当初、私は、サーキット予選の順位を見て、この番組のメッセージするものというのは、こういうものかと思った。

予選の順位は、こうである。

1位 パンクブーブー 40点
2位 磁石 30点
3位 ハマカーン 29点
4位 スリムクラブ 28点
5位 千鳥 27点
6位 ナイツ 27点
7位 テンダラー 27点
8位 ウーマンラッシュアワー 26点
9位 学天即 26点
10位 アルコ&ピース 26点
11位 チキチキジョニー 24点
12位 エルシャラカーニ 24点
13位 博多華丸・大吉 22点
14位 Hi-Hi 22点
15位 囲碁将棋 21点

この大会では、50組にしぼってからが長い。その50組に選ばれるかどうかが、ものすごくグレーゾーンな基準で、そこをこそ知りたいのであるが、
サーキットの2度の登場で、この大会がいかに現場受け優先主義かはおわかりだろう。
それはそれでわかりやすい。現場でウケない人が、本番に出てもウケるわけがないのだ。

ただ、M-1の倍の組数を用意して、M-1であれば「おもしろいけど、本戦では見られない」人たちをすくいあげられたこともたしかだ。
このバランスを取る数は、15組という数だったのかもしれない。
ただ、上位を見る限り、「漫才とはこうあるべき」という、保守的な幻想が、まだ客席と、ひいてはその客席の反応に重きを置く審査姿勢に、まだ強烈に残っているのではないかと思う。

モードの開発者たちは、25位以下にたくさんいる。
ただし彼らはあがってこない。新しさも重要だが、せめて上の15には入ってよ、というのがこの大会のメッセージなのだろうが、それにしても「これこそが漫才」という型に入っているか、入っていないかが、この点数の序列を生んでいるのではないか。

このことは、現場でウケているけれど、画面越しにはまったく伝わらない、という視聴者との乖離にもつながる。
「おもしろい漫才」を謳っているのに、うまい漫才を評価していては、芸人たちは結果を欲しがる種族なので、みんなが似たり寄ったりの「うまい漫才」を模索する可能性もある。
スピードに関してもそうである。
みんな早口で、画面越しに頭に入ってこない。
集中してお笑いを見ている人なんて、数えるほどである。この日、THE MANZAIを見る人たちは、普段はお笑いに興味のない人たちである。
「そんな人たちを相手にするとレベルが落ちる」という人がいるかもしれない。でも、そういう人たちがみる貴重な機会なのだ。
お笑いマニアに向けたスピードと、本番の中継のスピードは適度に調節できなければならない。
スリムクラブほどではないにせよ、私は囲碁将棋くらいのスピードが、ギリギリお茶の間のおじさんおばさんにも通じるスピードなのではないかと思う。
ウーマンラッシュアワーくらい、「早い」ということに意味を立てる以外は、家で見ている人の頭に響くスピードというものがあるだろう。
このまま現場ウケのスピードでやり続けると、最後はお茶の間から見放されてしまう。
お笑いよりスポーツ、お笑いより時代劇、となってしまう。普通の人にとってみたら、お笑いなんてその程度なのである。
ちがいなんか、そうそうわからない。

しかし、そんな状態でも、
「おもしろかったけど、1番にはできない」、こういったことが相対評価では起こりうる。
それって、なに!?
というのが、次年度以降の見どころにしていこうというのが、私のなかの課題である。
2番目におもしろい人が、本当はおもしろい人?
相対評価においては、「うまい」が優先されるのだろうか?
興味深い現象である。
これはM-1からずっと引きずっている問題である。
「おもしろい」を決めようと言っているのに、おなじくらいおもしろい人たちがいると、「うまい」が評価基準になってくる。
そうじゃない。本当は、「おもしろい」の質を比較すべくなのだ。


個人的にはマジカルラブリーはどうしてもみかたっかコンビなのだが、次年度以降の楽しみといったところか。
風藤松原や流れ星、もちろんPOISON GIRL BANDにも期待したい。
私も、なんともこの大会ではがんばりたいが。ただ、50に残るまでには、向いていない大会なのだなということを実感している。1,2回戦が、もうダメだ私たちには。
がんばるけど。
posted by: サンキュータツオ | ★コラム | 12:22 | comments(2) | - |-
やればできる子

やればできる子

「やればできる子」という評価があるが、
私の知る限り、やればできる子は、たぶんやらないし、やれない。

「やればできる子」は、いまではややポジティブ寄りの表現と受け止められているけれど、
冷静に考えていただきたい。
「現時点ではできていない子」という評価でもあることを。
「やれば」という条件つきの、潜在能力に対する評価であることを。

評価は、潜在能力に対してであって、
「やれるかやれないか」に対してではない。
で、「やればできる子」はやれないのである。
潜在能力が花開くことはない。

自慢にきこえてしまうかもしれないが、
かくいう私は、幼少時から「やればできる子」と言われ続けたきた。
結果から言うと、やれた試しがない。
やれない。
努力が嫌いなのである。嫌いというか、できない体質なのである。
努力できるのも才能とはよく言ったものである。
その才能が一番欲しい。

「嫌いじゃない」みたいなもので、
受け手によっては、部分否定なので、「好き」の範疇に収まるものと都合よく解釈しがちだが、
「好き」という評価でもないことを忘れてはならない。

シュートを打てれば、ゴールになる。
この場合も、シュートが打てないという問題が前提として横たわっている。
ゴール前までボールを運べてない。シュート以前の問題だ。
そんな状態の人に、シュートを打てば入るんだけど、なんていって、なんの意味があるんだろう。
問題のすりかえである。
勘違いをさせるだけである。

毎年、夏休みの宿題をギリギリにやる。
そしてひどい思いをする。
来年こそは、7月中にすべてケリをつけようと決意する。
実際、来年になってみると、8月31日に泣くはめになる。
下手をすると、9月1日になっても泣くはめになる。
最終的には、9月1日になってもやらなくちゃいけないことを残しているのに、泣きもせず、堂々としていられるようになる。
悪化はするが、好転はしない。
どんどん図太くなっていく。

私の周りにいる「やればできる」と言われ続けた子たちも同様である。
これは有意なデータだと思うが、ぜひ調査して裏を取りたいものである。
ここにあるのは、「できるか」「できないか」の問題であって、「やれるか」「やれないか」はまた別の問題である。
私からしたら、「やってもできない子」のほうが、最高にカッコいい。
だって、「やる」ことはできるんだもの。
そっちのほうが、プロセスとしては断然いい。自信になる。

「やればできる子」って、だれが考えた表現なのだろうか。
絶対に「やれる」側の人の理屈だと思う。
どうやったらやれるようになるのか、30年以上生きてきて、教えてもらったことがない。
この教えてもらおうという考えが、そもそも甘いのである。

posted by: サンキュータツオ | ★コラム | 03:15 | comments(4) | - |-
パンツ考
パンツ考

この季節、女性のワンピース越しに透けて見えるパンティラインにグッとくる。
別にワンピースではなくてもよい。スカートでもよい。なんでもよい。
暑くて、気を抜いてるときとかのうっかりもよい。
でもそんなことを言っていてはただの変態になってしまうので、ここではワンピースとしておこう。

パンツについて真剣に考えてみたが、
私はなにもワンピースを脱いだ状態の、「裸にパンツ状態」を見たいわけではないという結論にたどり着いた。
裸体には1ミリも興味ない。いや、1ミリはある。言いすぎた。

ただ、ここで問題を整理すると、
私にとって価値があるのは、
ワンピースあるいはスカート越しのパンツ
であり、
パンツ単体、あるいは裸の女体はたかが知れているので興味はない、ということだ。
裸の女体なんてものは、そんなに人にとよって大きな差があるわけではない。
だいたい日本人は肌色だし、だいたい胸は二個あるし、だいたいお尻から二本の足が生えている。
股からキノコは生えてない。
オオギリといえるほどのバリエーションは、裸体には存在しない。
せいぜいその長さや大きさくらいなもんである。裸体はあまりおもしろくない。情報が少ないからだ。

着衣にはバリエーションがある。
そこが問題なのだ。

ということは、私にとってパンツとは結局のところ、バリエーションのある、「行間」なのである。
ワンピースやスカートがなくてはダメなのだ。

餃子が中身だけ食えといわれてもピンとこないが、
餃子の皮があるだけで餃子としての価値や存在意義があるように、
パンツもワンピースやスカートがあってこそ、だ。
パンツをパンツ足らしめているのは、餃子の皮、つまり上着なのである! 上着万歳!

上着は「フリ」である。パンツは「オチ」である。もっといえば、「答え合わせ」。

どういう服を着ている人が、どんなパンツをはいているのか、
どういう顔つきの人が、どんなパンツをはいているのか、
その神経衰弱をしたいのである。
(ところで神経衰弱って、とんでもない名前のトランプゲームである)

そうでなければ、面白味がない。
パンツは「行間」だ。
フリから読む、オチ。
オチが最後までわからない、だから「答えはなんだったのだろう」を楽しめる。

そして、たまに神様のいたずらで、オチがわかる。答えがわかる。
だからたまんないのである。

はい、そうですね、変態ですねすみません。

2011.08.10
posted by: サンキュータツオ | ★コラム | 04:56 | comments(2) | - |-