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♪Fさん

♪Fさん


昔、アルバイトをしていたビジネスホテルに、Fさんという男性のアルバイトさんがいた。

Fさんは、アルバイトのなかでも最古参で、当時すでに40を超えていた。

Fさんは、車が好きなようで、すでにそのとき自分の会社を立ち上げ、車の修理などを請け負っていたらしい。
毎日忙しくて大変なのに、
「小遣い稼ぎ」
と言って、週に2回、そのホテルの夜勤にきてアルバイトを続けていた。

Fさんは、半端な社員よりもそのホテルのことに詳しいので、なんでも教えてくれたし、またいかの経営母体の社員さんたちがダメな人たちかを事細かに教えてもくれた。

したがって、アルバイトの新人は、みな最初は火曜日、Fさんとの夜勤に入るきまり、みたいなものができていた。

Fさんは、40過ぎているし、昼間もガッツリ働いているし、次の日もガッツリ働くから、「早く寝かせよう」がアルバイトの暗黙の了解みたいなところがあった。

アルバイトは22時から翌朝9時までだが、だいたい24時にはFさんに寝てもらって、7時くらいまで寝てもらう。新人は、残りの2時間寝る、といった具合だった。
どんなアルバイトだという話である。

しかし、Fさんに気に入られると、Fさんは興に乗ってしゃべり倒すことがある。
なぜか私はFさんに気に入られてしまい、Fさんは青春時代のやんちゃトークを何度もしてくれ、夜中の3時くらいから寝て、結局終りの9時まで起きてこない。
こうして、私は寝られない日もあったほどである。

Fさんは、高校生のときに好きな子ができると、学校が終わって一目散に家に帰り、自分で改良した車にのって、好きな女の子の帰り道に待ち伏せし、「送っていくよ」と言うイベントを何度もやったらしい。

Fさん曰く、女はただひたすら押しまくれ!とのことで、そりゃそうできればいいけれど、という話を何度もしたことを覚えている。

Fさんはまた、警察と何度も喧嘩したらしい。
スピード違反で呼び止められたことに対して、絶対していないと言い張り、最後まで違反を認めず、三時間くらい押し問答の末、結局裁判所まで行って無罪を主張し、告訴を取り下げられた話など。

居眠り運転で何度も事故を起こしたことも笑って話していた。

そんなFさんは、40を過ぎても一人身で、家ではウサギを飼っていた。
名前は「ココア」とか、そんな愛らしい名前だったように思う。
およそFさんのやんちゃぶりにそぐわない名前で、ウサギのかわいさについて長々語られて、結局私が眠れなかった日もあった。

Fさんはホントにすぐにカッとなる人で、それはお客さんに対してもそうだった。
酔っ払ってワガママなことを言う客に対しては、
「おう、じゃあ泊まんなくていいから! 出てけ! おらあ!」
と平気で叫ぶ人でもあった。

客と喧嘩して警察沙汰になったこともあった。

この人は、どんな人生を送るのだろう、と大変興味深く観察していたら、
なんのことはない、
おなじアルバイト先の若い女の子といつの間にか付き合っていて、
独り身を謳歌していたFさんもついに結婚した。

そう考えると、ウサギの名前もだれがつけたのかすぐにわかった。

女はただひたすら押しまくれ、きっとそうなのだろう。


posted by: サンキュータツオ | 土曜♪随筆(開設〜2009年9月まで) | 23:16 | comments(1) | - |-
♪Mさん

♪Mさん

昔、アルバイトをしていたビジネスホテルに、Mさんという男性の社員さんがいた。

Mさんには信じられないことがたくさんあった。

背格好は小太りで、温厚な熊のような印象でとても優しそうな人なのだが、
なんでも前の職場である別のビジネスホテルで、横領をしていた人を告発して転職してきたということだった。

Mさんはおとなしくて、なにか聞かないと自分から話すタイプでもなかったので、
いろいろ聴いたら、沖縄出身の人で、
本当は中学しか卒業していないのだが、履歴書には高卒と書いて就職したらしい。
学歴詐称している人が、なにを摘発しているのだという話である。
まったく信じられない話である。

また、Mさんは、中学生のときに、友達と沖縄の山で焼き芋をしていたら、知らない間に火が大きくなってしまい、
自分たちの手ではもうどうすることもできなくなり、山を一個焼いてしまったという話もあった。
さすがにまずいと思ったのか、「山が燃えている」と自分で通報したそうであるが、芋を焼いていたということは最後まで内緒にしていたらしい。

Mさんは手紙の宛名書きでも信じられないことをしていた。
縦書きの封筒の、左に住所、真ん中に宛名を書いていたのである。

「あれ、Mさん、普通住所は右に書きませんか?」
「え、そうなの?」

いままでだれも注意していなかったのかと思うと衝撃である。
それでも手紙は届くから大事には至らない、別にいいといえばいいのである。
Mさんは、それまでずっと、手紙の住所は一番左に書いていたそうである。

Mさんは、『名探偵コナン』がすごく好きな人で、
近くのレンタルビデオショップで、『名探偵コナン』を大量に借りてきていた。
まだ当時はVHSでのレンタルが主流であったのだが、
アニメのVHSを20本一気に借りたりする人をはじめてみた。
レンタルビデオ屋さんの貸し出す袋の、一番大きいやつをはじめてみた。

横に長いボストンバックのようなもので、大工さんの工具箱くらいの大きさはあった。
Mさんはそれを職場から出るとき自宅まで持って帰るのだ。
そして、そういうことを何度もしていた。

Mさんは近所に住んでいるらしく、
自宅からジョギングついでに、職場に突然訪れることがよくあった。

深夜の夜勤で入って私は、一人で職場にいたら、
夜中の三時頃に突然Mさんが、ジャージ姿で職場に入ってきたときは、
あやうく通報するところだった。
ジョギングしているというのだが、汗ひとつかいていないのが信じられなかったが、たしかに息はあがっていた。

そのビジネスホテルももう数年前になくなってしまい、
それ以来Mさんとも会っていない。

まだあのあたりをジョギングしているのであろうか。
たまに近所のレンタルビデオ屋で『名探偵コナン』がごっそりレンタルされていたりすると、
それはMさんの仕業なのではないかと、いまだに私は思ってしまう。


posted by: サンキュータツオ | 土曜♪随筆(開設〜2009年9月まで) | 17:48 | comments(0) | - |-
♪夏休みの過ごし方

♪夏休みの過ごし方

夏休みをちゃんと過ごせたことがない。
夏休みを謳歌して、最高の休みにできたことがないのだ。

休みはいつももてあまして、お盆のころには、早く学校がはじまらないかな、などと思っており、
ごろごろ自堕落な生活をするよりは、学校の仲間と会いたかった。

9月になり、学校へ行くと、コンガリ焼けて、最高の夏休みを過ごしきった仲間がいる。
私は寝て、テレビを見て、宿題もなにもせぬまま、ただ時間だけが過ぎるのを待っただけの人間だったので、
夏休みをきちんと謳歌できた人がうらやましかった。
生活のメリハリがきちんとできているようで、そういう人はきちんと宿題を済ませているから不思議だ。

甲子園での高校野球中継も終わり、いよいよ夏休みも佳境に入ってくると、
このままではまずい、と思い、自転車に乗って外に出た。
普段行きもしない図書館に行って、美人の女の子とでも出会えるかもしれないと思っていたが、そんなこともなく、
集中力もないのでそそくさと帰ってくる。

人生は不公平だ、夏休みなんてなければいい、そう思っていた少年だった。

しかたがないから、夏休みはゲームばかりしていた。
『信長の野望』という、なるべく時間がかかるシュミレーションゲームをずっとやっていた。
それもとても強い織田信長や武田信玄でやっていてはつまらないので、南部とか結城とか別所とか、
弱小国からはじめるのである。

目を閉じてもゲーム画面が出てくるくらいやりこんで、何度も天下を統一したはずなのに、
私の生活はなにも変わらなかった。

そうこうしているうちに、新学期がやってくる。

私はいまだに、夏をどう満喫すればいいのかわからない。
みんなだけが楽しそうで、自分だけがつまらない、長いクリスマスが続いているような気さえする。

いまも、そんな子どもたちがいるのではないかと、夏休みになるとふと思う。
そういう子たちに、なにかできることはないのだろうか。

posted by: サンキュータツオ | 土曜♪随筆(開設〜2009年9月まで) | 13:28 | comments(0) | - |-
♪足の音
♪足の音


その電車は、まったくホームにおさまらず中途半端な場所で、決まりの悪そうな様子で止まっていた。
ホームにはけたたまいしいサイレン音がなり、あらゆる人々を不快にさせた。

「ただいま6番線ホームで人身事故が発生いたしました。お急ぎのところ申し訳ありませんが、ただいま全線で運転を見合わせております。いましばらくお待ちください」

アナウンスが入る。「申し訳ありません」ではなくて「申し訳ないことでございます」だ、と頭で別のことを文句を言いながら、やるせなき気持ちと焦る気持ちが交錯した。

人々は、昼間の移動とあって、みな単体での移動のようで、話し合っている人はいない。いや、正確には話し合っているのはいま隣にいる人ではなく、携帯電話の向こう側にいる人である。
みな口々に、迷惑そうな口調で、それでも目線は「その場所」を見つめてる。
自分には関係ない人が轢かれた。それだけのことである。心を痛める要素はまるでない。

すぐに「その場所」には、どこで用意されたのか、巨大なブルーシートが四方に張り巡られ、いつの間に到着していたのか、救急隊員と警察官が無線でなにやら話している。

私の乗っている電車も止まったまま、目の前にはブルーシート。

行き場を失った乗客たちは、あるものはタバコを吸いに、あるものは駅員に文句をいいに、あるものは待たせている人に電話をし、みなホームに出て行った。

そして、見るな、と自己主張しているブルーシートに、みるみる引き寄せられていく。

別のホームで立ち往生していた乗客たちまでもが、いまこうなった原因をつくった張本人を見てやろうと思ったか、あるいは物珍しさがあるのか、あるいはなにも考えず、
わざわざこのブルーシートの前にぞろぞろと集まりだした。

それは巨大な蝿たちであった。

ただ、足の音、靴の音だけが、ひとつのホームのある地点に向かって、地響きのように集まった。
オーケストラの演奏者たちが示す拍手のように、ただ地面に足をたたきつけているかのように、我先にと、「その場所」に向かい、車両とブルーシートの間にできたわずかな隙間から、身を乗り出して「それ」を見ようとしている。

「見るな」は「見ろ」のサインになったかのように、甘いものに引き寄せられる蟻のごとく、人々は「それ」に群がった。
ただ、見てやろう、という意思だけを持って、自分にまったく関係のない「それ」に群がっていた。

到着が遅れたものは、群がる人の肩の後ろから、背伸びをしてまで「それ」を見る。
口先にあてがわれた携帯電話では、電話先の相手に「それ」への文句が並べ立てられる。

「それ」は見事に、手際よく処理された。
その場所には、水で洗い流された、濡れた縁石だけが残った。

あと30分もすれば跡形もない。

大きい図体で決まり悪そうにしていたその電車は、そのときようやく本来の場所におさまった。

蝿や蟻たちは、獲物がなくなったのか、もとの目的に戻っていった。

その足の音は、祭りの後のように、どこかさびしげでさえあった。

電車が動き出そうとする時、頬にぬるい風を感じた。

posted by: サンキュータツオ | 土曜♪随筆(開設〜2009年9月まで) | 23:08 | comments(1) | - |-
♪明治の男と大正の女

♪明治の男と大正の女

 
祖母の臨終は、私が中学3年のときに訪れた。
癌であった。

祖母は私を育ててくれた。
私はそのときすでに母子家庭であったので、母の帰りの遅い平日の夜は、隣に住んでいたこともあって、夕食なども作ってくれていた。
冬には石油ストーブをたき、そのストーブの上であたたまったふかし芋を食べるのが私はなによりも好きであった。

私は祖父母にはずいぶんと甘やかされた。
母が帰ってくるまでの時間、ふかし芋を食べに行き、テレビで相撲を見ながら、祖父は日本酒を少量飲んで気持ちよくなり冗談や駄洒落をよく言ってそのうち眠りこけてしまい、祖母は笑いながら編み物をしていた。そんな静かな時間がとても貴重なものに感じていた。

貴花田がはじめて優勝した日、祖母は入院をした。
「あれは横綱になるのかしらん」と祖母が言っていたのを覚えている。
缶ジュースの烏龍茶が発売されており、祖母はそれを飲んで「お茶をお金を出して買う日がくるなんて思わなかった」とも言っていた。
そう言いながら、ストローで烏龍茶を飲みながら「ありがたい」なんて言っていた。

当然ながら、祖父母は自分たちのことを「おじいちゃん」「おばあちゃん」と言っていた。
名はコウユウとトシコである。
祖父母は非常に仲の良い夫婦であった。
喧嘩をしたところを見たこともないし、祖母は祖父を、祖父は祖母を尊敬していた。
明治の男と大正の女。
小さい私から見るに二人の関係は、つかずはなれずの夫婦の「あるべき姿」のように見えた。

生涯で一度だけ夫婦喧嘩をしたことがあると聞いたことがある。
祖母は、一度も会ったことのない祖父のお見合い写真を見て、祖父のいる満州まで追いかけていき、結婚したそうだ。
私の父は満州で生まれた。
ハルビンというその街には、一日中排気ガスにまみれ、ほどなくして生まれたばかりの父はぜんそくになったらしい。
東京に引き揚げるというときには、父はもう助からないと医者から言われたそうだ。
助からないので、そのまま現地に置いていって見殺しにせよと助言されたとか。
時代である。
そんな理屈がまかり通っていた時代。
そのときに、子を満州に置いていくか、死んでもいいからともに引き揚げるかで、一昼夜喧嘩したという。
どちらがどっちの主張をしたのかは言わなかったけれども、結局父は日本に引き揚げられた。しかもちゃんと生きて帰り、結果的に私が生まれたというわけだ。

それ以来、大きな喧嘩はしていない、と明治の男も大正の女も目を合わせていっていた。
私には甘かったあの二人も、それでも激流の時代を生き抜いてきたからか、あの時代の人特有の凛とした威厳があり、私はどこか畏敬していた。
庭には防空壕のあとがあり、東京大空襲のときの悲惨な話も祖母は涙ながらに語っていた。しかしそんな時は決まって祖父はなにも語らなかった。

二人は当然、順番として明治の男が先に逝くだろうと思っていたに違いない。
しかし残念ながら先に伏したのは祖母だったのである。

祖父は足と目が悪かったが気丈に振る舞い、近所の病院までよく見舞いに行った。
とくにこれといって祖母と会話があるわけでもなく、杖をついて椅子に座ったまま、黙ってそこにいるだけだった。
そんな病室にいると私は時に気まずくなったものだった。

いよいよという日が来て、家族は全員病室に集まり、最期の時を待つしかなくなった。
皆がベッドの脇に集まり、意識が薄れていく祖母の耳元に、いろいろ声をかける。
人間の、最後に残る感覚は聴覚なのだそうだ。
祖父も立ち上がって声をかけていた。

完全に意識がなくなりかけたそのとき、祖父は大きな声で叫んだ。

「トシちゃん!」

祖父が祖母の名を呼んだのを聞いたのは、あの時が最初で最後だった。
あの祖父の声を聞いたとき、私はハルビンの排気ガスを吸ったような気持ちになった。

祖母が亡くなってからは、あれだけ威厳のあった祖父は魂が抜けたようになり、数年後90歳で大往生した。

posted by: サンキュータツオ | 土曜♪随筆(開設〜2009年9月まで) | 23:36 | comments(3) | - |-
♪エライやつ
♪エライやつ

小学生2年生くらいの、ちょうどいまの時期、仲の良かった友達同士で、家の2階のベランダから、小便飛ばしごっこをした。
 
だれが一番、遠くまで小便を飛ばせるかを競うゲームである。
男のプライドをかけた戦いである。
あの頃は、一番小便を遠くまで飛ばしたやつがエライ、という風潮があった。
 
又木くんと菊池くんと私でやるのだが、何度矢っても又木くんには勝てない。
1日に二回やるのだが、さすがに一回目に無敵を誇った又木でも、 2回目にはそんなに飛ばないだろうと思っていても、やっぱり2回目も又木が勝つのだった。
「又木」という苗字さえも、彼が王者であることを物語っているように思えた。
又木は頭も良かったしスポーツも万能だった。
そんな人が小便までよく飛ぶので、とても敵わない。
一番小便を良く飛ばした又木くんの将来の夢は、宇宙飛行士であった。
頭もいいし、一番良く飛ばす男なら、なれると思った。
当時の私は、彼なら本当に宇宙飛行士になれると思ったのだ。
 
いつだったか、そんな下品な大会を、公道に向けてやっていたので母親にこっぴどく叱られ、又木にはリベンジもできず、彼は仲間内では伝説のチャンピオンとなった。
 
私たちは、そのうちそんな大会を催していたのも忘れ、そのままファミリーコンピューターがうまいやつがエライ、という風潮になっていた。
 
男とは、そんなことの繰り返しである。

30を過ぎて、たまに街で又木くんとすれ違うたびに挨拶をする。
彼はいまサラリーマンである。
 
すれ違うたびに、あんなに遠くに飛ばしていたのになあ、と思う。
posted by: サンキュータツオ | 土曜♪随筆(開設〜2009年9月まで) | 03:09 | comments(0) | - |-
♪反復
♪反復


以前、髪を伸ばしてみたら、私の髪はある程度長くなるとクセがでることがわかり、なんとも変な形になることがわかった。
しばらく「適度」を保ち続けていると、それは次第に「適度」な感じに思えなくなってきて、こんどは少し短くしてみようと思う。
しかし先日、少し短くしてみたら、私の髪はある程度短くなるとクセがでることがわかり、なんとも変な形になることがわかった。

次の日、出掛けに外に出るといつもより寒い。雲もどんよりとしていた。
シャツにカーディガン一枚で足りるかと思ったけれど、5分くらい歩いて、夜のことを考えたら、とても耐えられそうにないくらい寒くなると思われた。
そう思うと、いますでの寒く感じる。
仕方なく一度家に戻り、カーディガンを諦めて、ジャンパーを羽織って外に出た。
出たはいいが、今度はホントに微量の、霧雨が降っているのがわかった。
いまは傘なしでも不便はないが、今後どうなるかわからない。もし傘なしで行ったとして、この後雨が降って、コンビニでビニール傘を買う行為、それは私にとって「負け」を意味する。

人は毎日傘を差して歩くものでもない、雨が降るから傘を差す。しかしその雨が、一時的なものか、本格的なものかにより、持参する傘の種類が違う。
しかも私は傘が好きである。何本も持っている。人に傘をプレゼントするくらいである。変な傘も好きである。その日の服装によっても持つ傘を変えたい。
逡巡した。
折りたたみ傘を持っていくべきか、本格的な傘を持っていくべきか。
天気予報を確認する時間的余裕はすでにない。
折りたたみ傘を手に持った。
歩き出しつつ、一度その傘を開いて、荷物が全部覆えるかどうか確認した。どうやら大丈夫そうだ。この傘は、電車内で置き忘れた傘の販売で入手した、少しレトロなかわいいやつで、それでいて目立たない傘。
よし、たたんで鞄に入れよう、とたたみ始めると、折った部分の骨の突端から、傘の生地がはずれてうまくたためない。
たたみにくい折りたたみ傘ほど醜いものはない。
不愉快になったので、また家に戻り、今度は本格的な傘を持って出かける。骨の多いものである。絶対に電車に置き忘れてはならない傘である。紫の傘でありながら、品のある色でうるさくない。うるさいのは私だけで充分である。

不思議なもので、雨が降っていないと、あれほどこだわりぬいた傘でもその存在をぽっかり忘れることがある。
持つ前に、「忘れないぞ」と自分にプレッシャーをかける。そのプレッシャーがまた不愉快だったりする。1日のうちに、ひとつ懸念材料が増えるのである。
しかし、雨は好きだ。傘がさせるし、雨は美しいし、音も気持ちいい。降ってくれれば本望だ。
ついでにいうと晴れも好きだ。傘をささないでいい。これは全く矛盾していない感情だから不思議だ。
雨の対義語は晴れではない。

こうして、その日は雨は降らずに終わった。途中、傘を手に持っていないことに気づき、ヒヤリとした瞬間もあった。しかし、置き忘れた場所に戻り、傘はしっかり持ち帰った。

この手のことの繰り返し、生きるとはこんなものんである。
posted by: サンキュータツオ | 土曜♪随筆(開設〜2009年9月まで) | 10:41 | comments(7) | - |-
♪ツインの老人
♪ツインの老人

私が昔、アルバイトをしていたホテルは、そんなに大きくない街の、そんなに大きくないビジネスホテルだった、とはいえ値段もそんなに安くなく、おなじ値段なら、もう少し大きな街の、もう少しいいホテルに泊まれるくらいのものだった。
内装もいたって質素で、サービスもそれほど良くはない。
狭い部屋にベッドとテレビ、机、あとはユニットバスくらいのもので、ルームサービスもなにもない。
綺麗な建物というわけでもなく、ひたすら古いつくり、ただ、駅から近い、ということだけが取り得で、それでも家に帰れないほど遅い時間まで働いているサラリーマンたちには、使い勝手がいいのか何人も常連たちがおり、なんとかそのホテルは命脈を保っていた。

ところで、常連、というか、住人がいた。
私がアルバイトをはじめた頃には、すでに2階のツインの部屋に住んでいる老人がいた。
一人なのに、なぜかツインに住んでいた。
毎日宿泊している、という言い方は妙なのだが、完全に住んでいる状態のその老人は、そんなに足腰がしっかりしているわけでもなく、だれかが面倒を見なくてはいけない、というほどでもなく、食事はなぜか吉野屋がお気に入りで、よく杖をついて外に出かける姿を見た。
三日に一度、部屋の掃除を定期的にし、部屋の宿泊料は毎月決まった日にしっかりと振り込むのである。

そんなに安くない宿泊料の一ヶ月分である。サラリーマンの月収以上の額である。それを何年も、もうその老人は払い続けていた。
年金ではとても払える額ではない。いったい何の職業をしている人なのか、それもまるでわからない。

その老人は、なにか用事があると、フロントに電話をしてき、短い言葉でボソボソと注文する。
それも朝だったり昼間だったり深夜だったり、時間はバラバラで、いつ寝て、いつ起きているのかもわからない。
一回、電話でのやりとりで、気が短い人らしい、ということがわかって、それからはあの人はきっと昔、暴力に自信のある人たちの団体に属していたのだろう、という憶測までひそかにささやかれていた。それもあくまで憶測で証拠はどこにもない。確かに怖い顔をしていたが、それにしても部下らしき人は一度も来なかったし、私にはすべてが謎だった。

ただ一人、「娘」と名乗る人が、一週間に一度、着替えをもって彼の部屋を訪れていた。娘、にしてはちょっと若い感じのする人で、顔もあまり似ていない。
娘、はちゃんと、週に一度、まるで仕事でもこなすかのように着替えを持ってきては、数時間いてどこかへ帰る。泊まりはしない。
しかし一緒に住むような関係ではないらしい。
充分どこか都内の部屋を借り入れるには、充分すぎるほどのお金を持っていながら、それでも彼は一人でビジネスホテルに住んでいたのだ。
住民票さえそのホテルに移そうとしていて、社員とひと悶着あったほどである。
彼の部屋は、1ヵ月に一度、別のツインの部屋に移動する。部屋にその人の匂いがつくのを防ぐためである。
彼の部屋が移動するごとに、ああ、月が変わったのだと、皆が思うのも無理はないことだった。


私がアルバイトをはじめて2年くらいたったときであろうか。
深夜に電話がなった。とると「ツインの老人」である。
私はそのときはじめて、その老人としゃべった。

「タクシーを呼んでくれ」
「はい。どちらかにお出かけですか?」
「鹿児島に帰る」
「はい? この時間ですと電車も飛行機も出ておりませんよ?」
「そうなの? ……じゃあ、タクシー呼んでくれ」
「はい、構いませんが、どちらまで行かれますか?」
「東京駅」
「はい。この時間ですと、東京駅に行っても電車は出ておりませんが……」
「うー」
プツっと電話は途切れた。

また5分くらいして電話が鳴る。取ると件の老人である。
「鹿児島に帰る」
「はい。ただいま深夜ですが……」
「タクシーを呼んでくれ」
「はい、構いませんが、どちらまで行かれます?」
「東京駅」
「はい。この時間ですと、電車も出ておりませんが、大丈夫でしょうか?」
「ううーー」
また電話が切れる。

また5分くらいすると電話が鳴り、またおなじことの繰り返しである。
5回くらいこのやりとりをしたことと思う。
しかし最後のやりとりは、
「タクシーを呼んでくれ」
「はい、僭越ですが、できましたら明日の朝か昼間にご用意いたしますよ、いますぐには行けない場所です」
「うー、もう一度……」
プツっと電話が切れた。それでこのやりとりはなんとか落着した。 

どうやら老人の故郷は鹿児島で、このホテルにはいたくないらしいということが直感できた。
そして、いよいよだな、ということがなんとなく感じられた。

朝の引継ぎでことの次第を社員に告げ、私はホテルを後にした。
しかしその後、ツインの老人からはそんな電話はなかったようである。

それから3ヵ月ほどして、老人は病院に運ばれ、その翌日亡くなった。
戦争を経験したであろう、そして高度経済成長を支えたであろうその老人は、最後にだれに見取られるでもなく、ありったけの貯金を場末のビジネスホテルに投下して亡くなった。

老人が住んでいたツインはその後、業者に清掃と消臭を任せて、数ヶ月後にはまた稼動した。
月の頭にツインの部屋を移動する慣例もなくなった。

私はあの老人が、最後に「もう一度」、なにをしたかったのか、いまだに気になっている。
posted by: サンキュータツオ | 土曜♪随筆(開設〜2009年9月まで) | 19:01 | comments(0) | - |-
♪沈黙の山手線
♪沈黙の山手線

学校に泊り込みの、春休みの部活の合宿が終り、私たち三人は、駅に向かっていた。
何日にも及ぶ練習のせいで、それはもう、体中筋肉痛で、いつもの通学路でさえ疲れ果てて駅までもが苦しい道のりだった。

私たち三人は、帰る方向もおなじだったので、だいたいいつも三人で帰っていた。
体は痛かったけれども、合宿を終えた高揚感もあって、帰り道は冗談を言いながら、買い食いなどもして、束の間の自由を満喫しながら、いつも以上に騒いで歩いていた。
それが、中学高校と6年もおなじ学校、おなじ部(私の学校は、なぜか「班」と言っていたが)の私たちの流儀だった。
帰り道には、必ず夕方に出ている焼き鳥の屋台で、一本50円の焼き鳥を一本買い、レバーを食べるか皮を食べるか、さんざん迷っては、みんなで違う串を買って分け合うのだった。

いつもは10分ほで到着する駅には、30分くらいかけて着いた。
あとは電車に乗るだけだ。
内回りの山の手線を待つホームで、三人でベンチに座り、体の痛みを愛でながら、その合宿での出来事を笑いながら振り返っていた。

と、間の悪いことに、そのホームでおなじく帰宅の途に着く生活指導の教員と遭遇した。
その教員は洒落が利かないほどに厳しいことで有名で、いつも影でその厳しさが笑いの種になるほどだった。

教員は私たちを見て、
「そこの三人、帽子はどうした?」
と言った。

私の学校は、男子校で制服は軍服っぽく、通学中でも制服・制帽・製靴を義務付けていた。
まるで軍隊のような学校であった。
しかし、常に制帽を被っていては、街中では恥ずかしい。
帽子だって海軍風で、とても通学中にはかぶっていられないのが普通の生徒の感覚だろう。
多くの生徒は、中学二年くらいになると、帽子をつぶし、なるべくかさばらないように鞄につめ、学校の近くになると、教員に叱られぬようにちょこっと頭に乗せる。
教員も生徒も、表向きはそれでよしとしていた節があったが、
この生活指導はそんな建前を許さず、立場もあってか帽子を被っていなかった我々を容赦なく断罪した。

「はい」と言って、田中は大きな荷物のなかから、ぺったんこになった帽子を取り出し、恥ずかしそうに被った。
問題は大山と私である。
春休み中の学校での合宿とあって、そんなにうるさい教員もいなかろうと思い、そもそも帽子なんぞ家から持ってきてもいなかったのだ。

「学校に忘れてきました」
「僕もです」
全く息のあったウソを、私たちは探したフリをした後に並べた。探したってないことを知っているのでそうなる。

「じゃあいまから取って来い」

とんでもないことを言う教員がいたもんである。
30分もかけたあの道、しかも途中に大きなのぼり坂のある道を、この体中筋肉痛の学生に、戻れとのたまうのである。

「わかりました」

明確な殺意を抱きつつも、完全に顔が割れている大山と私は、ふてくされつつも改札に向かうそぶりを見せて歩きはじめた。
田中は、おいどうすんだお前らという顔でこちらを見ている。

学校に向かうというのはあくまでフリだけにしておいて、一本電車が来れば、その教員は電車に乗ってしまうだろう。
そう思って、一旦改札を出て、電車が来るのを待った。

念のためと思って内回りの電車が2本くらい行ったのを待って、我々はまたホームに入った。

するとまだその教員は仁王立ちでホームにいた。

「だから取りにいけっていってるだろ」

全く向こうも意地である。
なにが彼をここまでにしてしまったのか、まるでその気持ちがわからない。
手段が目的化した取り締まりに、本気を見た我々は、諦めてまたすごすごと改札を出ることにした。
田中は、おいどうすんだお前らという顔でこちらを見ていた。

「あいつ本気だな。どうする?」
「学校戻るとか、あり得ないよね」
「というか体力的に無理だろ」
「どっかで時間つぶさね?」
「そうしようか。田中はどうする?」
「さすがに帰るでしょう、ある程度時間かかるのはわかってるはずだし」
「だな、あ、じゃああそこのラーメン屋でラーメン食おうぜ!」
「いいねー」

学校まで戻れといった教員への、せめてもの抵抗に、我々は学校には戻らず、ラーメンを食べに行った。
そこのラーメン屋も我々のテリトリーのひとつで、
いつも赤いシャツを着たおじさん(通称:赤シャツ)とも顔見知りである。
買い食いしたばかりなのにラーメンを食べてしまえるのだから、若者の胃袋は驚異的である。
二人でついさっき駅で起きたことを、もう笑い話にして、ラーメンをすすり「うまい、うまい」と絶叫した。
逆にあいつ来なかったら、こんなにうまいものを食えなかったな!などと言いつつ。
呑気な二人であった。

ラーメンを食べ終わって、事件から30分後、駅のホームに戻ると、
そこにはまだ田中が待っていた。
正直大山と私は、こんなに長い間彼が待っているとは思いもしなかったので、急に申し訳ない気持ちになった。

「おめーらなにしてたんだよ?」

完全に田中はおかんむりである。
顔でわかる。これは冗談が通じる場面ではない。

しかし、最初から帽子なんて持っていなかった私たちは、真実を伝えるしかない。

「ごめん。ラーメン食ってた」

こんな、火に油を注ぐようなことをよく言えたもんである。

「っざけんなよ」

それから田中は黙り込んでしまった。
弁解の余地もない私たちも黙らざるを得ない。

三人は、電車に乗り、別れるまで完全に沈黙していた。

山手線


このことが、いまだに三人で会ったときに一番に出てくる笑い話である。
posted by: サンキュータツオ | 土曜♪随筆(開設〜2009年9月まで) | 18:40 | comments(4) | - |-
木のスプーン

 ♪木のスプーン


小学生のときに、ある春のこと、母の実家にひとりで行った。
母の実家は、奈良県で、私はひとりで新幹線に乗ってそこまで行くことに、大いなる冒険を感じていた。


新幹線に乗る、ということは、当時の私にとってはお祭りのようなもので(今もそうであるが)、
せっかく一人で行くのだからと、精一杯満喫したい気持ちで、母にせがんで「こだま」で京都まで行くことにした。


新幹線は速さが売りだが、私は毎回、一秒でも長く乗っていたい、米原を抜け、長いトンネルに入り、トンネルを抜けると見える京都タワーを望むと、なんだか寂しい気持ちになったものである。


大きな荷物をかかえて、ひとりで東京まで行き、東京で新幹線に乗り換える。
盆か正月には毎度行っていたので、一人で行っても、いつもと変わらぬルートで、予想外に問題もなく新幹線までたどり着いてしまい、拍子抜けした。
新幹線では、たくさん買い込んだお菓子をちょっとずつ食べるのが私の儀式である。
しかし、はじめての道中一人であることに、少しでも大人ぶりたい私は、ポッキーと、読みもしない本をお供に新幹線に乗り込んだ。


二人席の窓側に座った。
「こだま」は、「ひかり」では気づきもしなかったトンネルとトンネルの間にある山の自然も、ほど良いスピードで鑑賞できる。
これで良かった、と私は自分で選んで乗った「こだま」を、なぜか誇らしく思っていた。


隣には、三島から乗ってきたおじさんが座っていた。
そのおじさんは、一人で乗っている私を怪訝に思ったのか、「一人で乗ってるの?」と聞いてきた。
「はい」
私は余所行きの言葉で対応せねばと思って、なるべくおじさんを心配させないように話した。
「何回も行ったことがあるので、大丈夫です」
「どこまで?」
「京都です」
「それはすごいね」
なにがすごいのかはわからなかったけれども、子どもだからってバカにするなよ、と思った。


大人ぶっていた私だったが、ひとつ誤算があった。お菓子をポッキーしか持っていかなったことだ。
「こだま」は「ひかり」よりも到着に時間がかかる、したがってポッキーがなくなってしまうと、食べるお菓子がない時間が長くなるのだ。
ポッキーはもうなくなってしまった。


車内を売り子が通りかかる。
「お弁当にお茶、ビールにおつまみ、静岡名物、安倍川餅はいかがですかー」
感情のない声が、いつもとおなじで私はなぜかその声を聞くと安心した。


「アイスクリーム食べるか?」
おじさんは言った。
「え、ホント?」
遠慮というものを知らない私は、完全に子どものリアクションである。
新幹線のアイスは高い。
そのことに気づいて、
「いいんですか?」
なんて言ったりしたがもう遅い。私は完全にアイスクリームを出迎える気分で昂揚していた。


おじさんは、カップに入ったアイスを二つ買ってくれた。
「はい」
と言ってひとつを私に渡すと、おじさんは自分の分は座席の前のテーブルに置いて、まだ食べる様子がない。


「いただきます」
と言って、私はアイスのフタを取り、フタの裏についているやつをこそいで食べ、本丸であるカップに入ったほうをどうやって切り崩すか思考する。
アイスはカチカチに冷えている。
フタのほうのを口に入れると、冷たさのなかから、甘いバニラの味が広がって、これでこうなんだから本丸のほうはいかほどか、私の脳は期待する。


いざ、とアイスクリームを食べるときのあの木のスプーンをしっかりと握り、アイスに突き立てた、それはもう、岩石に埋もれる宝石でも探り当てるように。


すると、木のスプーンは冷え切ったアイスの硬さに根負けして、ボキリと折れた。


おじさんを見ると、目をつぶって眠っていた。


売り子はもういない。急にどうしていいものか不安になった。
おじさんには声をかけてよいかどうかわからない。
おじさん、おじさん、おじさん、と、私は心のなかで思って、でもおじさんに知らせたところでどうしようもない事態であることを認識し、ただ呆然とした。
救いを求めるような目で、ただおじさんを見つめた。


すると、おじさんはほどなくして目をあけた。
眠そう目で私を見、
「ん? どうした?」
「いえ、あの……」
なんだか急にスプーンを折ったというドジをどう伝えてよいのかわからなくなり、緊張して私は、言葉を詰まらせた。


「スプーン折れちゃったの? ほれ、これ使っていいよ」
状況を察したおじさんは、そういうと自分のスプーンを私にくれた。


「ありがとうございます」
急に安心して私は、遠慮なくそのスプーンを受け取った。


あのあと、おじさんは私の使ったあとあのスプーンを使って自分の分を食べたのか、それとも売り子のとこまで歩いて行って新しいのをもらったのか、まるで記憶がない。


あれ以来、新幹線ではアイスクリームを食べていない。

posted by: サンキュータツオ | 土曜♪随筆(開設〜2009年9月まで) | 22:31 | comments(5) | - |-