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■西炯子『娚の一生』小学館フラワーコミックスα2010.06.22 Tuesday
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西炯子『娚の一生』
初老の学者と三十路OL。ある日突然の同居。
西炯子『娚の一生』小学館
「おとこのいっしょう」と読みます。
非常に良い!! 大好きな作品です。最新刊、3巻読みました。
少女漫画のなかでも、私はどうやらフラワーコミックス派のようです。
とにかく、どの作品も好きなんだから仕方ない。
この作品、
35歳のキャリアOL。たぶん、ソニー的な会社に勤めている感じで、仕事がすごいできるけど、愛想のない、凛とした女性。オタクならみんな好きに決まっているのだが、実際には、もう少しむっちりしているのかしら。
いわゆる「負け組」的バックボーン。
大きなプロジェクトをひとつ片付け、有給を大量にとって、片田舎の祖母の家にやってくる。
作中での仕事は、原子力発電の仕事です。できる! できる理系女子!
滞在中に、祖母が亡くなる。
親戚は、遺産相続でああだこうだ。
「ここの土地、私が買います」
思わず言ってしまうが、なかば本気。
地方在宅での仕事に切り替えようかな、的な。
だれもいなくなったその家の離れに、なぜか見知らぬ男性が出入りしている。
初老のメガネ男性。
なになに、なに!?
なんで知らない人が、この家にいるの!?
聞けば、その人は大学教授。
実は、祖母が大学で講義をしていたときの教え子だという。
それ以上の関係はわからない。
そして、関西弁! まろやか関西弁! どこか品のいい関西弁!
「一緒に住めばいいやないの」
「僕と結婚したらええやないの」
はい!?
―という、ファンタジー展開。
いわゆる、「同居」からはじまる、恋、のようなお話。
いいっすねえ、いいっす!
わけのわからんおじさんと、
それに振り回される三十路女。
主人公が自立している女性だからこそ、安心して見ていられる、ほかに言いようのない関係性の変化。
文学的でありながら、少女漫画性が担保されているこの味わいは、なかなかない。
マイペースな教授は、大胆なことを言うわりには、ツンデレ的で、なにを考えているかわからないぶん、ドキドキ感もあり。
しかし、主人公が自分で買ったネックレス(ここ重要! 自分で買ったとこ重要!!)を、台風の日に失くしてしまう。それを、台風のなか探しに行ったまま、戻ってこない。
翌日、ふとした時に、そのネックレスをそっと首にかけてあげる教授!
キター!! やべー!!
実際の年齢設定を忘れてしまう、このファンタジー感あふれる2人!
なんとなく、ゴールは見えていつつも、どう説得力を出してくれるのか、毎回楽しみなこの作品。
後悔しないと思います。
「わかっているけれども」な展開のなかにも、非凡な具体的エピソードが光っていて、ずっとこの世界観から抜け出したくないような、温かくて、静かな雰囲気に呑まれます。
買いです!
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中村明日美子『あなたのためならどこまでも』芳文社 手錠、警察と犯人。離島。2010.06.16 Wednesday
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中村明日美子『あなたのためならどこまでも』
手錠、警察と犯人。離島。
中村明日美子『あなたのためならどこまでも』芳文社
あの『同級生』『卒業生』という、BL漫画史上で最高到達点を示した漫画家、中村明日美子先生の漫画。
「今回の単行本は、耽美趣味的な要素はほぼありません。テーマはあほエロです。」
と宣言おられますが、
この作家は意図して耽美的にせずとも、画風から耽美の香りがするので素晴らしい!
表題作の「あなたのためならどこまでも」は、
結婚詐欺を働いた容疑者と、彼を逮捕した刑事の物語。
ずっと追いかけ続けたものだから、二人は手錠で結ばれているというわけです。
はい、ここまででそうとう「バンザイ!」と叫びたくなってしまうほどのご都合主義なわけですが、
離島で逮捕したもんだから、なかなかフェリーはこないわ、
犯人に破廉恥なことをされている間にフェリーは出ちゃうわ、
あげく漁師の船に同乗させてもらっていたら、転覆して無人島に流れ着いちゃうわ、
もう、「んなアホな!」と叫びつつ、ガッツポーズがとまらない展開。
「俺はお前を軽蔑してる
お前にはいちいちがっかりさせられる
うんざりだ
もう二度と俺に余計なことはいっさい言うな」
とか言っている、クールメガネの刑事さん。
そんなことを言われて、
「好きだよ、高千穂さん」
と応える犯人!
「きっ
キサマぁ
サギ師!! ペテン師!! 変態!! う うそつき!! わーん」
という言葉を、メガネ刑事から引き出すわけだから、ギャップがたまらない。
メガネでクールなほうが、実はかわいくて、
女に不自由しなさそうな、自然体男のほうが、一途で、
という構図は、『同級生』の関係性からは変わらず、この関係性の発見と、その魅力の普遍性を説いたものだと捉えてもいいかもしれない。
ホントに天才である。
今回のこ作品には、刑事と犯人という、緊張関係があるところが、いつどこでお互いを裏切るかわからない、という点でドキドキも一枚上乗せ。
おもしろかった。
あ、BL漫画です。免疫のない方は、ご注意ください。
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アウトレイジ2010.06.14 Monday
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アウトレイジ
私の事務所のトップでもある、北野武監督の最新作『アウトレイジ』(HPめっちゃ重いけど、凝ってる)。
皆さん、是非見てみてください!
◆北野武監督インタビュー ヤクザの漫才的なやりとり
ヤクザたちが言い合いしているのは、漫才の間 前フリとオチ
なぜかわからないけど、私はこの人が撮る映画が全部好きだ。
なので、劇場公開に合わせて、今回も見に行きました。
今回は、マキタスポーツ兄も出演しているとあって、期待大。
構成はいままで一番美しい。シンメトリー。
でも、予想以上に「ビートたけし」と「椎名桔平」の存在感が大きくて、ちがう展開も見たくなる。
エンターテイメントに徹するなら、『座頭市』と同様の流れでも、たけしさんが暴れるカタルシスも感じたい部分もありました。
しかし! この展開もアリ!
大好きです。
もう一度見てきます。感想などは、じっくりどこかで。
毎度毎度、最新作を楽しみにできる幸せは、なかなかない。
マキタスポーツはいい後頭部を見せておりました。
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◆山岸涼子『日出処の天子』2010.01.06 Wednesday
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私の少女漫画の原点!
『日出処の天子』 最高のミステリー歴史BL漫画
山岸涼子(1984)『日出処の天子』白泉社
人生で何度も読む漫画や本というものは少ない。
私はこの『日出処の天子』をいったい何度読んだだろうか?
姉がいたせいで少女漫画があふれかえった我が家においても、私にとってこの漫画は特別だった。
山岸涼子といえば、いまその名を知らない人はいないほどの巨星である。
萩尾望都・大島弓子・竹宮惠子と並び、「花の24年組」と呼ばれる漫画家で、少女漫画の発展と可能性の発掘に寄与した人物であることはだれも疑いようの余地がない。
舞台は飛鳥時代。
主人公は厩戸王子(俗にいう聖徳太子)と、蘇我蝦夷(蘇我毛人、と表記。えみし、と読む)。
天才すぎて恐れられ、他をよせつけぬ強きオーラを放つ厩戸王子は、同時にだれもが目を疑うほどの美貌の持ち主、しかも女性的な美である。
豪族の長男である毛人は、朝廷に取り入るためと命じられ、そんな王子と一緒に過ごすことになるのだが……。
仏教が伝わってくるときの日本の雰囲気と文化人の質、
そのなかで聖徳太子が果たした役割、
朝廷と豪族の関係、
そんなようなものを、山岸歴史解釈で教えてくれたのもこの漫画の魅力のひとつなのだが、
いまから思えばこの漫画には、
「BL」
というものを教えてもらっていたように思う。
だって、太子と毛人が、ちょっと出来ちゃうんだもん(太子受け)。
同性だし、近づいちゃいけないとわかりつつ、それでもお互い惹かれあう二人。
「友情以上恋愛未満」が、「友情以上恋愛以上」になる瞬間を見逃すな!
そして最後の結末。
何度読んでも「切ない」思いに身を引き裂かれそうになったのを覚えております。
すべてはここからはじまっていた!
この漫画、
セリフ回しもコマわりも絵のタッチも、山岸先生の魅力を存分に引き出している傑作と思いますので、すでに24年組を知らない世代に是非読んでいただきたい!
「LaLa」に1980年から連載していたという漫画です。
もう30年前! うわっ!
厩戸王子というキャラクターの妖艶、そして才覚。
史実をこうも解釈すると、それはそれで「正史」!
三国志演義みたいなものだと思って読んでみてください。
歴史物だと思うと硬いイメージがありますが、ホントに人間くさいドラマのなかにちょっぴり歴史テイスト、いうなれば「いにしえテイスト」の設定が入っていると思えば、まったく抵抗なく楽しめます!
伝・聖徳太子(いまは実在すらも怪しいですが)という人物が、100倍身近に感じられる作品です!
文庫になっているのでお手軽ですよ!
個人的には仏像マニアとして、鞍作止利(くらつくりのとり)が出てきたところが熱かったです!
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◆『ニューシネマパラダイス』SUPER HI-BIT EDITION2009.12.30 Wednesday
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劇場初公開版が復活! 是非こちらを! 完全版は観ないで!
『ニューシネマパラダイス』
ジュセッペ・トルナトーレ(1989)ニューシネマパラダイス』
もはや、映画好きや映画を見ていると自負している人の前で、「なにが好きですか?」と聞かれたら、とてもじゃないけど言えない作品、それが『ニューシネマパラダイス』である。
思い切りバカにされること請け合いである。
しかし、そうであっても、私がこの作品を好きなのは、これを中学生のときに最初に見た感動、その気持ちの揺さぶられかたのハンパなさをいまでも覚えているからであり、いい意味での「トラウマ」的作品だということもあるだろう。
だから、こっそりとこの作品が好きだということにしているのだが、なかなか人前では言わないようにしている。
というのも、最近『ニューシネマパラダイス』を観ようと思っても、どこのレンタルショップに行っても「完全版」しかなかったからなのである。
ここに断言しておくが、『ニューシネマパラダイス』の完全版は、0点である。
この作品ほど、劇場公開版と完全版で、解釈が180度変わってしまう作品もないのである。
「粋」と「野暮」の言葉の意味を同時に覚えた人は、是非両方味わって欲しいくらいのものである。
そんななか、この2009年に、ようやく待望の、
『ニューシネマパラダイス』SUPER HI-BIT EDITION
が発売されたのだ。
きっと私のような声が大きかったに違いない。
このDVDのコンセプトは、
数々の賞を受賞し、興行記録を打ち立てた劇場初公開版。一切の特典映像を排して映画本篇のみを収録しクオリティを追及。
だそうである。
そう、それでいいの!
アマゾンなら1000円台で買えるの!
カンヌグランプリを獲ったのは、この劇場初公開版であって、オリジナル完全版じゃないから!
気をつけてください、みなさん!
ジュセッペ・トルナトーレ監督は、この後、『みんな元気』『明日を夢見て』『海の上のピアニスト』『マレーナ』など撮りましたが、あえて言いますと、この『ニューシネマパラダイス』の劇場初公開版は、偶然に出来てしまった傑作と言ってもいいでしょう。
私のなかの解釈では、このトルナトーレ監督は「人情映画」を撮りたいわけではなく、もっと言えば「泣かせたい」というより、どうやら「笑わせたい」人なのである。
『海の上のピアニスト』は、感動映画としてみたら最低なんですけれども、コメディ映画と思ってみると極上なのである。
それほどに、この映画がこの監督のその後の作品を観るときの足かせになってしまっているのは仕方のないことかもしれないが、どうか、もう一度まっさらな気持ちでこのSUPER HI-BIT EDITIONを観て欲しい。
オリジナル完全版は絶対に観ないで欲しい。
どうしても観てやろう、という場合は、どうか最初にSUPER HI-BIT EDITIONを観たあとに、私の言ってることを確認するために観て欲しい。
そもそも、「オリジナル完全版」だとか「ディレクターズカット版」なるものが、劇場初公開版を超えたことは歴史上ない。
マジ頼みます、完全版観ないで。完全版で評価しないで。
いや、ホントにこの映画好きって単純に言ってしまうと見識を疑われてしまうのは、大人になってみたら仕方のないことなのかもしれませんけれども、それでもこの劇場初公開版はいまだに私の涙腺プレーの、最高のおもちゃである。
どうぞバカにしてください。
名優・フィリップ・ノワレの代表作であると私はいまだに思っていますし、音楽のエンリオ・モリコーネの才能もここが到達点だとすら思っています。
いろんな要素がかみあって、偶然に出来上がってしまった、劇場初公開版。
どうか、この値段だったら、一家に一台置いてやってください。
江戸に息吹いた「義理・人情」のような、江戸っ子的「粋」が、実はイタリア、シチリア島にあったということを実感できる映画だと思います。
この映画は、いまのどの落語よりも落語だし、浪花節である。
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■『談志 最後の落語論』2009.12.23 Wednesday
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これは本当に遺言である。
なにも言わない。ただ「読め!」
立川談志(2009)『談志 最後の落語論』梧桐書院
「落語に対する能書きを本にするのは最後になるかもしれない。書けるところまで書いてみるとする。」
「まえがき」の末文にこうある。
この本は、“プレイヤー”談志と、“落語評論家”談志、いやもっといえば“哲学(落語)者”談志の、遺言である。
西洋哲学、東洋哲学というジャンル分けを認めるならば、落語哲学というものがたしかに存在する。
キリスト教やヒンズー教、仏教などの宗教があるとするならば、落語教がたしかに存在する。
「落語とはなにか」に(自分なりの)答えを提示した、史上初めての落語哲学者こそ、立川談志である。
その偉大すぎる足跡は、数百年後でも語り継がれるものであることを私は確信している。
談志とは、落語史におけて、安楽庵策伝や三遊亭円朝に匹敵する巨星である。
そういうことを踏まえてこの本を読むと、もう首肯すること必至、首が痛くなるほどだ。
そして、なによりも目から鱗ばかりか、涙まで流れてくる。
「落語とは業の肯定」、そして「業」とは「非常識」。
いままで積み上げてきた哲学に、今回は「江戸の風」という概念を提唱する。
この人の偉大さが、いまもって正確に世間に伝わっていないこと、それはつまりテレビというメディアが巨大になったことの証でもあるように思う。
私は、「落語右翼」として、この本をなにもしらない人に読んでもらいたい。
いま、こんなことを考えている人と、まだおなじ空気を吸っているという感動を味わってほしいのだ。
内容に関しては大きくはふれない。
ただ、「読め!」としか言えない。
あ、そういえば浜ちゃんが昔そういう本出してた!
表紙をはがすと、なんと談志師匠の高座のお姿が!
かっけー!
この表紙を見るだけで、数々の高座が目に浮かぶ。声が聴こえる。もがき、苦しんで、解体し構築しつづける談志師匠。
神。
あえて言おう、談志は神! ネ申!
演者としても若き日よりその才を輝かせ、理論家として落語に向き合い、解体し、それを伝える表現力を持ち合わせる。
これにより、最高の弟子たちを育てた。「継承」されるのは、古典だけではない。イズムもである。
こんなことを可能にした人物は、歴史上、だれもいない。
まだまだ、1秒でも長く、どうかどうか、しぶとく生きていてほしい!
談志師匠が亡くなってしまったら……なんてことをいまはまだ考えたくはないのである。
この人物と同時代の空気を吸えたことに、いまはただ酔いしれたい。
関連記事
◆談志が神になる 〜立川志らく『雨ん中のらくだ』について〜
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◆夏目イサク『ノーカラー』新書館2009.11.11 Wednesday
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友情以上、愛情以上!
やっぱりBLはやべえ! まずはこれを読め!
夏目イサク(2005)『ノーカラー』新書館
あの人気BLシリーズ『是』を送り出している新書館で刊行されている漫画。
BL漫画を読み出して、かなりの数をこなしている私ですが、この漫画はそこはかとなく良い!
だれが読んでも「きゅん☆」とくること請け合い!
と、申しますのも、「BL」という領域だけで考えた場合、そこにはすでに「男同士が愛し合う」という大前提がまずあり、「男同士恋愛大喜利」みたいになっているのがオーソドックススタイルと申しますか、スピードの緩急こそあれ、ゴールは決まっているわけで。
そうなると、当然最初から「恋愛」的な感じで2人の関係が描かれていく、というのが王道。
言ってみれば、「別にこれ男と女で良くね?」という形のものが多く、私はそれを否定するものではありません。
むしろ、率先して、「なんだかよくわかんねんだけどよ、男同士だからいいんだよ!」
という、「考えるな、感じろ」で接してきたわけです。
最初からいきなりどぎつい絡みなどがあっても、いまの私は「ああ、そのパターンか」というくらい慣れてきたわけですが(それはそれでどうかと思いますが)、
とにもかくにも、そういうシーンがあるものもないものも含めて、
BLの魅力というのは、というか、これはBLに限ったわけではないのですけれど、「人間」が描かれているのもであれば、男同士であろうが女同士であろうが、もちろん男女でも、誰が読んでもおもしろく仕上がっていると思うのです。
そういう意味で言うと、まずこの漫画、けっこう丁寧に、2人の内面、心の動き、「人間」が描けていると思います。
2人は、アパートの隣同士に住んでいる若者。
一人はメガネをかけていかにも繊細そう。勉強を熱心にしていて、資格の試験なんかもクリアしちゃうような秀才タイプ。
「よい成績をとること自体がアイデンティティー」、という感じ。
普通はここに「なぜそうなったか」は描かれなかったりするのですが(というのも、メガネキャラのテンプレという感じで、あとはご勝手に想像してください的なものが多いため)、この漫画ではなぜそうなったのかがしっかり描かれている。
一方で、その隣に住んでいる、元気でがさつな男は、ひっきりなしに仲間を家に呼んで飲んで騒ぐタイプ。
秀才は、その部屋のうるささに思わず文句を言いにいく。そこから物語がはじまるわけだが、最初はチャラいと思っていたその男が、実は「やりたいこと」があり、肉体労働にはげむ、頑張り屋さんだったりすることを知るわけ。
元気男の「やりたいこと」とは、カメラだったりするんだけれど、普通だったらそこで説明が終わるところ、しかしこの漫画は、実はカメラのことでこの男が悩んでいる、というところを描く。
自分にはホントに才能があるのだろうか、自分が撮れるものとはなんだろうか、自分は本当に努力しているのだろうか。
そこを描くからこそ、ほかの大学生のように、若者らしく浮ついた日々を送ろうとしない、頑固で心を閉ざした、自分の目標にまっすぐに向かっているメガネ男に惹かれていく。
一方で、メガネ男は、アイデンティティーのために真面目を貫きつつも、素直で「やりたいこと」に向き合っている、世界の美しさを知る男に、「本来の自分」を見つめる機会を与えられ、元気男に惹かれていく。
この、惹かれていく動機付けが見事なのである。
まずこれが一点。
さらに言うと、この漫画、そんな2人の関係が、最初は「友情」のように描かれているのが、ほかの漫画にはなかなかない描き方なの!
個人的な欲求からすると、BLというのは、男同士がもつ特有の「友情」―それは、あるときは独占したがったり、嫉妬するようなある種の「愛情」にも似た、絆のようなもの―を、女性的に解釈した場合の「恋愛」的なものであって欲しい。
第一次作品で、時にはライバル、時には親友、というような、思い切り「友情」でつながっている、絆のある2人。それを、恋愛的に解釈したものが、第二次創作、つまり同人誌などで描かれている「やおい」だとしましょう。
私にとってBLとは、この「第一次作品」と「二次創作」の境界線を取っ払ってしまう、画期的なジャンルなのです。
つまり、まず「友情」を描いた上で、その延長線上に「恋愛」がある。
それが、私の「良きBL」観なのである。
よく、仲がいいのに恋人ではない関係を、「友情以上恋愛未満」と言いますが、
私が、素晴らしいBLをたとえて「友情以上愛情以上」と絶叫するのはこういう理由からで、
いきなり最初から恋愛、というよりは、男同士の「友情」の延長線上に「恋愛」があって欲しいのです。
この漫画、なにが素晴らしいって、普段の2人の会話がホントに男同士の軽口の言い合いみたいになっているのが良い。
それは2人はお互いの気持ちを知ってからもかわらない。
そういう「普段」があるからこそ、「いざ」という時に、恋人みたいなセリフをはくところに、「きゅん☆」なのである。
おいおいなんだよかわいいじゃん!みたいな。
そして、こういう「一線越え」のセリフ、関係性が、「BLはファンタジー!」と思わせてくれる部分でもあるわけです。
全編通して、というのもいいのですが、「普段」と「デレ」のメリハリがあるから、「友情以上愛情以上」が明確になるというか。
元気男が、カメラのアシスタントでアメリカに行くと決まったとき、
メガネ「どのくらい?」
なんつーかわいい2人なんだろう。
元気「一ヶ月」
「いっかげつ? 行ってこいよそのくらい」
「バカ! おめー長すぎる一ヶ月なんか! この一ヶ月だけでも長えのにさらに一ヶ月だぞ!?
我慢できっか!」
「がまん?」
「てめーをガマン するのはだからもうやめる」
普段のしゃべりが、普通の友達っぽく「おまえ」とか「てめー」とか、喧嘩っぽい。
もともとよく言い争いをしている2人だから、キュンゴマの効果大である。
BLと少女漫画の違いはなにかとよく考える。
別に、このBL、「男と女」でも全然成立するじゃん! というのがよくあるからだ。
当然、でも「男と男」だからいいんだよ、理屈なんかねーんだよ!
というのも私の持論なのであるが、
一方で「友情以上愛情以上」を描くのがBLだとするならば、少女漫画にはない、男同士の「友情」をしっかり描くことが、BLをBLたらしめる要素であるとも思うのだ。
ぞんざいな言葉遣い。
恋愛を持ち込まなくても成立しえる関係性。
「男」として描かれる、人間としての登場人物。
そこに「恋愛」を持ち込むファンタジー。
ああ、BLを読んできて良かった、と思えた作品、それがこの『ノーカラー』である。
すいません、BLに興味のない人はなんのことやら、ですが。
知らない世界をのぞくと思って、一回だけでもお手にとってみたらいかがでしょう?
「お前の目って何も映ってねーんだな」
元気男が、勉強ばかりに明け暮れるメガネ男にこう吐く。
このセリフは、タイトルの『ノーカラー』にも通じる象徴的なセリフでもあるわけですが、私から言わせれば、アニメを見ない人、そしてBLを知らない人、偏見を持っている人全員に言いたいセリフなのである!
(はいはい、わかったわかった)
以前こちらで紹介した『坂道のアポロン』は、そういう意味では「友情以上恋愛未満」の男同士の友情が描かれているもので、男としては、「おおお、あああああ!」とうなづける感情がたっぷりなので、「友情の表面張力」として読んでいただければ嬉しいのですが、
その「表面張力」が決壊し、「恋愛」として昇華されるとどうなるか、というのは、この『ノーカラー』を読んでいただければ一目瞭然である。
是非比べ読みしていただきたい。
参考記事
■坂道のアポロン
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◆『マン・オン・ザ・ムーン』&『パンチライン』2009.09.02 Wednesday
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夢がある!
人を驚かせること、からかうこと。お笑い芸人の本質。
ミロシュ・フォアマン監督(1999)『マン・オン・ザ・ムーン』パイオニアLDC
デイビッド・セルツァー監督(1988)『パンチライン』ソニーピクチャーズエンターテイメント
昔、アメリカには人騒がせな芸人がいた、いや、あえて向こうのテイストを尊重するのであれば、正確に言ってコメディアンである。
アンディ・カウフマンという人。
この伝説的コメディアンの、少年期の様子からはじまる。
テレビ番組を食い入るように見、周囲を驚かせ、楽しませることを生き甲斐にしている男。
それが成人し、「テレビ」のなかに入って、コメディアンとして活躍しはじめる。
しかし、舌先三寸で笑わせるというよりは、テレビでの楽しませ方を追求するのが、こちらの芸人とはちがってコメディアンたるゆえんだ。
そう、芸人とコメディアンとは、野球とベースボールくらい、少しだけちがうのだ。
もちろん、向こうにもスタンダップ・コメディはある。
基本的には漫談芸のようなものが主体のイメージなのですが、私はアメリカに行ったことがないのでわからない。
でも、そういう劇場出身の、いわば舞台型「芸人」も、テレビの世界に行くと、テレビというメディアにあった楽しませ方というのができる人が多いから不思議だ。
つまり、アメリカのほうでは、「発想」が重視される笑い、柔軟な適応能力、
それがしゃべりであっても映像でもあっても、その人が生きるかのよう。
ビートたけし的、あるいは松本人志的な、テレビで「ネタ」じゃない「演出」をかませたコメディを仕掛けるのが多い。
劇場を舞台とした映画で大好きなのは、『パンチライン』。
1988年の作品、まだトム・ハンクスがこんなにエライ感じになる前の、
まだ若手っぽい、意地悪そうで、それでいて芸人然としている頃。
アメリカの小さいお笑い劇場で、スターコメディアンを夢みて日々ネタをやっているトム・ハンクスと、子どもが三人もいるのにいきなり「お笑いやりたい!」とか言い出す主婦、サリー・フィールドがお笑いコンテストで大激突する映画である。
昔この映画を観たときに、アメリカ行ってみてー!と思ったものです。
『パンチライン』は、劇場での鎬をけずる二人が軸の、コメディアンになる前の「芸人」のお話。
いやホントにこのサリー・フィールドとトム・ハンクスはしびれるくらいに生々しかった!
私はこの映画でどれだけサリー・フィールドを好きになったか!
野心があったり、サービス精神があったり、プロ根性とアマチュア精神がせめぎあったり。
劇場をめぐる悲喜こもごもが描かれていて、なかば今ではリアルな世界になっちゃってる私として、なかなか改めて正視できない内容。
この劇場で、全く受けないのに、アコーディオン弾いてネタやる爺さんとか、妙に印象に残っている。
『マン・オン・ザ・ムーン』のほうの主人公、ジム・キャリー演じるアンディ・カウフマンは、そういった舞台芸、という部分からはみ出して、まさにテレビをおもちゃにしたような人。
あ、ちなみに実在の人物です。
印象深かったのは、ただただテレビの前にいる視聴者たちに、テレビを叩かせるために、わざとオンエアの画像をブレさせたりする、そんな「遊び心」。
それが許された、というか、スタッフさんたちも「よし! やったろうぜ!」みたいなノリが通用する国なのか、時代なのか。
とにかく日本ではまず許されないだろうなーという、「仕掛け」に嬉しくなった。
そんなことを考えた人がいたなんて。
この映画、公開当初、というか今でもなんですけど、やっぱり映画通たちは「おもしろいけど、映画としてどうなの?」みたいなことを言われた。
「映画としてどうなの?」という人に問いたいですよ、「映画ってなんなの?」って。
2時間くらいの映像作品が、国の違う、アジアの若造に届いてるんだから、立派な映画じゃん。
いや、それ以上に、映像としての持ち味、映画でなければならない理由、そういうことを言い出したら、それはたしかに映画としての完成度は低いかもしれない。
でも、そんな完成度を飛び越えて、なにかが伝わればそれは映画の本望だろう。
『大日本人』にもそんなことを偉そうに言っている人たちが多かったけど、響いちゃうんだからそれは認めなければならない。
とにもかくにも、映画で表現されていること、この映画でいえば、アンディ・カウフマンという人に、やたら夢があるんだ、それでいいじゃないか。
こんな人が実際にいたっていうことに感動できる、それでいい。
仮にこれがテレビドラマでもいい。
映画である必然性なんてどこにもないかもしれないけれど、テレビじゃ海外の人には受け取れない可能性がある。だから映画でいいのだ。
カウフマンは、テレビで女とプロレスしてボコボコにしたりされたり、もうブーイングなんて屁でもない。
究極的に言うと、お笑い、というよりは、人を驚かせたい、からかいたい、そんな形でのコミュニケーションしかできない人だったんじゃないかというくらい。
実際、癌になっちゃって35歳でなくなった人なんだけど、自分が癌だっていうことも、告白しても「またジョークか!」と周りの人に全然信じてもらえないもんだから、もうコメディアンとしては本望である。
これはつまり、
お笑いの根本には「人を驚かせる」という気持ちがあるからで、もうそういう気持ちに溢れている主人公のカウフマンを、ジム・キャリーが最高にかわいく演じてくれていた。
どんなにシリアスなことを言っても「ジョークでしょ」と言われてしまうこと、
この狼少年的なことというのは、
いかにその人が強烈な「文体」を持っているかということにほかならない。
それまでの人生という「フリ」があるから、人は彼がなにを言っても「ジョーク」と思う。
こちらに笑わせる気がなくとも、である。
お笑いとは、ことほど左様に、受け手の解釈に左右されるものなのか、とすら思うが、実はそれだって発信側が、日常的にジョークを言っていなければ成り立たないことなのだ。
だから偉大だ。
最後のカーネギーホールでの場面なんかは、とってもハッピーなのに涙が出てくるくらいのシーンでした。
芸人じゃなくとも、芸人に憧れた人、芸人的要素を持つ人、
マジックや怪談を披露するのが好きな人、
ひざかっくんとかいい年してもしちゃう人、
というか、いい加減な人、
普段から「おもしろさ」を優先して生きている人、
そんな人たちなら、
だれしもが「うわあ、夢あんなあ!」と思える映画だと思います。
以上、2本の映画、オススメです!
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◆衝撃のフォルム! ジョージア『ギア』2009.08.19 Wednesday
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衝撃のフォルム! この発想なかった!
ドライブしなくても持ちたくなるペットボトル!
アイスカフェオレ『GEAR(ギア)』GEORGIA
「握りやすく、掴みやすい」というコンセプトで作られたこのペットボトルの形状!
ジョージアの「ギア」という商品ですが、お手にとられたことありますか?
もうフォルムの斬新さから、作った人がいかに頭をしぼったかが伝わってくる「熱い」商品、味がどうのより、これは買わねばなるまい。
まるでシュモクザメのような、この「もつ部分」の出っ張り具合!
何度も会議を重ねて、ペットボトルメーカーさんにも頭を下げて作ってもらったであろうこの形!
上から見たシュモクザメ(カフェオレ色仕様)の形。
商品コンセプトは、「ドライブ専用」!!
そうはいってもさあ、ドライブとか関係なくこのフォルムは「買い」だよ!
お茶などのペットボトルは、微妙なマイナーチェンジを重ねて、「美しさ」や「より多く入る」ものを重点的に作ってはきたが、ここまで「機能性」を重視したフォルムはほかにない!
そう、ドライブで運転しながたのペットボトル、前を見て運転しながらでも手に取れる形……ということで考え付いたのであろう。
きっと、「コーヒーとかカフェオレとかを飲むメインユーザーである、男性に訴えかけるもの」として、「そうだ! ドライブシーンでの適応性をアピールしよう!」となったのである。
幸い、おっさんたちはそんなに細かい味の違いにこだわらない。
形だ、形で勝負だ!
そんな製作者の熱意が伝わってくる。
数年後にはなくなってしまっているかもしれないこのフォルム、保存用として最適です。
ペットボトルマニアも大注目の「勇気ある商品」です!
この注意書きにも、試行錯誤のほどがうかがえる。
「運転しながらの飲用をお勧めする製品ではございません」
そうか、商品の最大のアピールポイントを、正々堂々とうたえない弱みがあったか!
「運転しながらなにかを飲む」を堂々とアピールしたら、怒られちゃうもんなあ。
そこで、考えに考えた商品の説明が、上部記載の三行の文章。
「握りやすく、掴みやすい「ダブルグリップボトル」採用。ドライビングシーンでゆったりとリラックス気分になれる、甘さ控えめのカフェオレです。」
なんと!
「ドライブシーンでゆったるとリラックス気分になれる」ということと、ペットボトルの形状についての記述を、分割するという苦し紛れっぽい売り込み文!
ペットボトルの形と、ドライブに適した「カフェオレの味」をまるで無関係のように見せる、見事な文章である!!
中身もおいしいが、それ以上に「味のある」文章です。
いや、ペットボトル形状ウォッチャーとして、感動しました。
日本人の工夫、「KUFUU!」が光る一本です。
是非、一本お買い求めをオススメします!
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◆小玉ユキ『坂道のアポロン』2009.08.12 Wednesday
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そこ知れぬ魅力!
ただただ、「いい!」としか言えない少女漫画の王道!
小玉ユキ(2008〜)『坂道のアポロン』小学館 400円+税
どうやら私は、少女漫画のなかでも、小学館系(flowers系)が好物らしい。
最近、少女漫画ばかり読んでてそういう傾向に気づき始めた。
今回紹介する漫画も2007年11月からflowersで連載されている、時代設定が「ちょっと昔」の少女漫画。
1966年初夏、横須賀から地方の高校へ転入した薫。幼い頃から転校の繰り返しで、薫にとっては学校は苦しいだけの場所となっていた。ところが、転入初日、とんでもない男と出会い、薫の高校生活が意外な方向へ変わり始め…!?
第一巻の裏表紙紹介文抜粋。
もう各方面で絶賛されている漫画なので、いまさら取り上げないでも読んでいる人たちが大勢いるでしょう……ということのなのですが、どうしてもこの漫画はオススメなので、万が一知らない方がいましたら、人生の取りこぼしにならぬよう、読んでいただきたいなと。
主人公は、この表紙のメガネ男子。
神経質そうで、地方に転校してきた都会っ子。
この漫画の魅力はなにかと考えたとき、1966年という時代設定がひとつあると思います。
戦争が終わって20年くらい、いまの団塊の世代の青春時代といいましょうか。
まだ貞操観念みたいなものの残滓があり、それでいて旧世代との価値観とは明らかに違う。
私たちの世代ほど、ものの考え方に多様性はそんなになく、携帯電話もない、まだドロっとしたコミュニケーションがあった時代。
「ガリ勉」がいた、「不良」がいた、「マドンナ」がいた。
オタクはあまりいなかった。
日本という国自体が、まだ「地方」感たっぷりだった時代。
こういう時代だからこそ、友情にしても愛情にしても「王道」がありうる。そしてファンタジーがありうる。
この妙な「時代の説得力」によって、すべてのものが輝きだしている。
風景も人も。
小玉先生の画力も素晴らしい!
時代を駆け抜けた「JAZZ」という音楽。大分という「地方」での若者たち。
「加山雄三」期である。
みんなが「典型的」だった時代。
主人公の薫(このメガネ男子)がかけてるメガネだって、いまでこそおしゃれメガネっぽいものとして受け入れられているが、当時としちゃあ、「ガリ勉」ぽいアイテム。大村紺イズム炸裂のダサダサメガネである。
なんでしょう、この時間によるいろいろな価値観のゆがみ。
しかしこのメガネが象徴しているように、「メガネ」君が「メガネ」君だった頃の話。
その薫が、出会った「不良」がこんな感じ。
見てくれこの「バンカラ」な感じを!堪能してくれ!
現在だったら痛いコスプレになってしまう「不良」ファッションも、この漫画を読むと実にスガスガしい!
「不良」や「ヤクザ」が実は優しかった頃の話。
この帽子、ボーダーのシャツ、極めつけは口にくわえている「葉っぱ」!
岩木イズム!
最近ではジャイアンツにいた助っ人外国人が、最後の天然記念物でしたが、この漫画だと違和感なんだなあ。
というわけで、いろいろなことが違和感ない時代、そういった世界観の構築が見事!
この千太郎という、ちょい不良と、薫くんの関係性がまたたまらない!
BL、まではいきませんよ、いかなくていいんです!
この漫画では、それはいりません!
妄想でいいんです。
友情以上、BL未満の、このなんともいいようなない「ベタベタした関係」がたまらんのです。
是非読んでみてください!
現在、三巻まで出ています。
最高です。
まったく非の打ち所がありません。
……だけど、恋愛とかでモタモタするんだったら、もう千太郎と薫できちまえよ!と思ったのは内緒です。
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