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あまちゃんの今後(妄想) と「萌え」の問題

『東京ポッド許可局』でNHK『あまちゃん』の話をしたついでに。
勢いが止まらないので、なんとなくの今後の妄想を。
ちなみに、
本放送では編集してくださっていた、「視点と感情移入のあり方」についてのアニメ『花咲くいろは』との類似、ドラマ『モテキ』『みんな!エスパーだよ!』との相違に関しては、
月曜日配信のポッドキャスト版でノーカット版を配信してくれるそうです!
ありがとうTBSラジオ長田局員!
地上波とポッドキャスト、それぞれの利点を活かしたアウトプットをしてくれたわけです。
たまに長くなったときとかはこれはいいかもしれませんな!

現時点での今後の妄想!
エヴァにしろあまちゃんにしろ、終わるまえにあれこれ妄想しておくと、脚本のすごさが体感できるので、いい。こういうのはみなさんもやってることだと思います。
こうするのかー!みたいな。
リアルタイムでみることの楽しさって、ああなるんじゃないか、こうなるんじゃないかってことを自由に考えて、作っている人の考えをトレースしたりしていく作業だと思うので、いまは視聴者としてそこを満喫したい!
そして、気持ちよく裏切られたいの! そういう経験がしたいの!

*****

宮本信子さんの、三人称叙述での心理描写
(〇〇は、<こころの状態>でした、のような形の文)
は、当初から気になっていたので、鹿島さんの話を聞いて、なるほどなあと思ったのでした。
とくに、宮藤官九郎さんのコラムの話(ナレーションに関するもの)は知らなかったので。

放送開始直後から、
立ち入った感情表現まで三人称が語る、ということは、全知の視点だから、人間ではなく神か、霊だな、と思ったわけです。

声は宮本信子さんだから、後者、という仮説を立て、そう思い込んでこのドラマを見ていました!

たとえば、学校での一幕。種市先輩とおなじミサンガをつけることになったのを、先生が騒ぎ立てたとき。

「『うるせぇデブだなあ』
 心のなかでそう毒づきながら、
 アキは喜びを隠せませんでした。
 『もしかしたら、種市先輩も好意を抱いているのかも』」


「うるせぇデブだなあ」「もしかしたら、種市先輩も好意を抱いているのかも」=アキの心の声の代弁(同一化):憑依型

「心のなかでそう毒づきながら、アキは喜びを隠せませんでした。」=アキを外から見た語り(対象化)でありながら、感情形容詞(喜び)を叙述する:神の視点

この混在。これが守護霊的視点。単なる語り手ではない。
まるで落語家のように、ときとして人物に憑依して語るのである。

また、

「残念!時間切れです。15分て短いですねー。明日、ちゃんと聞きましょう。」
 
などと言ったりする。急にメタな表現が出てくる。
この「隠しカメラを共有している感じ」こそが、守護霊的視点といいますか。
アニメですとナレーションではなくてカットやカメラ割りで表現するところ。

そうなんです、最初からお客さんを意識した語りなんですよね。
ホントに落語的なんですよね。
これがのちのち「私はここで死んでしまっていまこうして漂ってるわけですが」とか本当言わないことを願う!
(上記2例、5.14加筆)


一週目の金曜あたりから、私は完全におばあちゃんは死んじゃうのかーと思いながら見ていたので、その時点からもうウルウルしながら見ていたんですが、そこがほかの人と視聴の仕方がちがったようです。
実写のドラマに関してはだれとも意見交換しないというアニメヲタクの悪い癖で、だれとも感想戦を行ってこなかったんですよ。

すべてのシーンが「回想」だと思って見ていたんです、私(正確にはどの放送回も「回想」ではあるはずなのですが)。

いま、蟹江敬三演じるじいさんが出てきて、
「死んだと思った人が生きていた」
「年間10日しか会わなくても、生きていれば安心」
ということが提示されたので、
これは、
のちのち
「死んだはずの人がまたじいちゃんのときのように、素知らぬ顔で帰ってくるのではないか」
ということと、
「一日も会わない状態なんだ、と思い込むことで、死んだことをなかなか受け入れられない」
ということを暗示しているのではないかなと。
そんな気がするのです。

この世界で、
おじいちゃんにしろ、お父さんにしろ、
本来なら死んだり別れたりして存在が「欠けたもの」として描いたほうが自然なものを、なぜ「うすうす存在するもの」として描いているのか
それは、
「死」の影を極力排除するためである、と考えると説明がつくんですよね。
また、「うすうすでも存在することの喜び」なのです。
どんなに離れていたり会わなくても、この世界に生きていること、それを実感してっていうメッセージにとれる。

現状、種市先輩は、東京に就職が決まっているので、「東京」「東京の男」を象徴する存在。
そして、ユイちゃん(橋本愛)は、「アイドル」そしてやはり「東京」を象徴する存在として描かれている。

たぶん、アキちゃんは東京に行く。アイドルになる。
この番組の「アイドル」というテーマは、もっと掘り下げると、
「目的のためのアイドル」なのか「手段のためのアイドル」なのか、ということだと思う。
いま、母の過去が明らかになることで、
海女であること=祖母との絆
アイドルになること=母との絆
というように描かれている。

東京編はおそらく、
アキちゃんは「手段のためのアイドル」になるのだが、ユイは「アイドルになりたい」ということが目的化しているので、意外となんでもやるし、意外と空虚なのである。現時点ではユイちゃんのほうが「大人」として描かれているのだ。

しかし、おそらくユイちゃんは、アキちゃんを通して、「目的ではなく、手段としてのアイドル」に目覚めるというプロセスを経る。そしてユイちゃん視点でも「少女の成長物語」として読めるものになるのではないだろうか(ユイちゃんは東京でアイドルになったら、スキャンダルだけはないように気をつけてほしい)。

2011年以前と以降で、いろいろなものが「ひっくりかえる」。
それが私の見立てだ。
2011年以降では、ユイちゃんは「手段としてのアイドル」に目覚めるのだ、アキの影響で。ここで関係が逆転する。

いま、「東京」は将来的な場所として暗示されている。
それは、2008年という時代設定から明確である。
現時点では、北三陸でのアイドル的活動は2009年3月まで。
アキは高校2年なので、最長で2010年3月までは北三陸にいるはずである(上京が早まる可能性も充分ある)。
2011年には、アキちゃんは高校を卒業して、東京にいる。19歳から20歳になるころに、2011年を迎えるのだ。
しかも、海のシーズンではない3月は、故郷をアピールする手段としてのアイドルになっていることだろう。

そこで震災(戦争的な凄惨さを暗示するもの)が起こる。
地元に帰ると見たこともない光景が広がる。
ばあちゃんはいない(もしかしたら母も)。
そこに、いつもは故郷にいない、父とおじいちゃんと、一緒にいく
ここでも、「うすうす存在していたもの」が急に存在感を発揮するという、
「ひっくりかえし」があるかと思う。

「ひょっこり帰ってくるのではないか」

そんなことを思いながら帰りをずっと待ち続ける。
海にも入っていけなくなってしまう。
海女も絶滅する。
いまいる、海女さんたちの「サニー」感ハンパないでしょう?
あの人たち全員死んじゃうんじゃないかなと(美保純さんだけは生き残りそう。悲しい顔が似合う女優さんだから)。


「好きな人のそばに、1秒でも一緒にいたい」
このドラマのテーマはここだ。
「愛する人のそばにいること」。

悲しい時間が訪れたとき、いまの「幸せな光景」はかならずフラッシュバックするシーンだらけだ。
もう今日のお誕生日パーティの「勢ぞろい感」とか、私はもう半分くらい死んじゃうという思い込みだけでこのドラマを見ているので、涙です。ユイちゃんも先輩も、お父さんもおじいちゃんもいたから。意図的に、「全員揃い」の状態を作られているから!

(あんべちゃんだけいないけど、実はあんべちゃんは後半、避難先になる場所のひとりとしてのフリなのではないか?
 
 すべての人間関係が動き出す前の、事情を知らない人=楽な人として、描かれるのではないか、と邪推したりもする)
 
 
 

このシーン、もう何度もこすられるくらい「幸せの絶頂」として、のちのちフラッシュバックされるのではないか?
そんな恐怖心で見ているわけです。

「会いに行ける」と思って安心していてはいけない。
「会いに行かなきゃいけない」、そういうことである。
「会いたいときに会いに行くべき!」、このドラマのテーマはまさにここにあるのではないかと。

そして、アキちゃんは立ち直り、また故郷のために原点に戻り、海にもぐれるまで、がんばる。
そこで少女は成長する。

ヒロシも実はここで成長する。夢やぶれた東京にリベンジしにいくのではなくて(マネージャー志願として再上京するのではないだろうか)、むしろ震災があってから、逃げてきた故郷に帰る作業。それが小泉今日子演じる春子に通じる。だからあの二人は分かり合っている。
頼もしく、ネットを駆使して情報収集し、関係が悪くなっていた父親を探したり。
ヒロシは「有名なお父さんの子」として存在感のなさも、失恋も、震災も乗り越え、立派な男になるのだろう(アキちゃんか、東京で出会う女性あたりにうまくアプローチして達成してもらいたい)。ここでも「ひっくりかえり」が起こる。

と、ここまで妄想したのであるが、やはりアニメユーザーとしてこういった一連の「死亡フラグ」には敏感なもので、
第一話でこういう思い込みをしてしまうのは病気であろうと思う。
完全に思い込みなのだ。クドカンがこんなシナリオにするわけがない。

『けいおん!』の魅力は、守護霊的なカメラ位置と、「予知不安の解消」というストレスレスな部分にある、と、いろいろな媒体で語ったり書いてきたりしたのだが、
『あまちゃん』は、守護霊的視点をもつナレーションと、震災がくる、という大前提での「予知不安」が約束された世界観だ。

だから、私がのぞむのは、
2011年3月10日が、このドラマの最終回になる、ということだ。


もちろん、
万が一の可能性として、
宮藤官九郎さんが、たまたま落語っぽいナレーションやってみようかなあ、
とか、
シーンに変化つけたいから、地方と東京を行き来させようかなあ、
とか、
お父さんとおじいちゃんいたほうが変化つくし1週ずつもつなあ、
とか、
そういう考えだけで書いている可能性もゼロではありません!
(むしろそうであってほしい! )

もうさー、打たれ弱いからさー、私。耐えられないと思うの悲しいやつ。
大学か、アイドルか、わからないけど、アキちゃんが休みを利用しておばあちゃんに会いにきて、東京に帰るのが3/10。
そこで満面の笑みのおばあちゃんと、三陸の美しい海。

最後の5分くらいで、「2年後」というテロップが出て、
そこでまた元通り美しい海でありながら、海女として地元にもどっているアキちゃん。
最後に、あの誕生日のシーンとか、みんなで楽しくやっていたシーンがフラッシュバックして、青空にパンする。もうそれでいいじゃないか!

それが、オタクの私ののぞむ最終回だ!

……あまちゃんなのは、私なのだろうか。

地震はいろいろなものをひっくりかえしたが、それでもそれによって成長していく人たちがいる。そういうポジティブなドラマになるはずなのだ。

オタクを代表するような気持ちはさらさらないが、
重いのやだよこのドラマ。オープニングの曲だって明るいから、きっと暗い方向にはもっていかないと思うのだ。
そうあってほしい!

2011年3月10日が最終回説。

また予想変わったら書いてみる!


オタクっていうか、私は弱いなあ。

妄想を、原作から豪快にはずしにいくのが私の傾向なので、本編とちがっていても決して怒らないように。
ちがうほうがいいに決まってるんだから!

会いたいときに、会いにいく。そばにいる。
そう、
ちょうどいい機会がある。

7月8日、「会いにいけるおじさん」こと、我々東京ポッド許可局が、赤坂ブリッツでライブをやります!

オレたちと赤坂と東京ポッド許可局 〜屁理屈ブリッツ〜

宣伝かよ!
……自分のブログなんでいいじゃないですか。


*****

ちなみに、
「心の声が聞こえる」ことと、「視点人物」であることは別です。
アキちゃんを追っていても、心の声はすべてなつばっぱなので、語り手が宮本信子さんですよね。
なつばっぱがいないシーンでも、
宮本信子さんから見た、「アキちゃん」を叙述している、ということは、それだけでもずいぶん立ち入った叙述です。が、時として「心の声」まで代弁しているので、語り手の職能は完全に踏み外しているのです。
これを、狙ってやっているからすごいと思います(無意識か意識的か、という問題ではなくて、そう書いている、ということです)。

だから、構造として「落語」に近いです。
ときとして登場人物に憑依して「再現」するという。
だから、『あまちゃん』は落語的演劇空間のなかにあると私は思っています。
要所で語り手が顔を出すという。「なんでお前が知ってるの?」とはだれも思わない語り手。
非常に日本的な叙述の立場です。



人物の言動と、「心の声」がわかってしまうと、
そこに「感情移入」というか「萌え」は発生しにくいです。
なぜなら、
「萌え」は行間をうめる作業であり、
「こういう行動をしたということは、こういう考えがあったのだろう」
という、その「考え」の部分を間接的に知る、
ということに、「わび・さび・もえ」の「味わい」があるからです!
受容者が積極的にかぎとり、味わうものだからです!


言動と心の声の、両方がわかることは、「共感」はあっても「萌え」はないです
「この人と一緒だ!」「わかる!」はあっても、観察的視点でその人物を味わう「距離感」はなくなってしまうのです。

「萌え」には距離感が必要なのです。
その「距離」が、「覗き見」であり、「行間」であり、「間接性」であり、「守護霊の気持ち」なのです。
「他者である自分」を強烈に意識し、人物を対象化して味わう作業こそが「萌え」なのです!!



私が『モテキ』を受容できなかったのは、まさにこのすべての人の言動と心の声が聞こえたからであり、
『みんな!エスパーだよ!』をドキドキしながら見れるのは、部分的にしかそれがわからないからであり(しかもそれは主人公のコントロールによる)、
『あまちゃん』をアニメ的に受容できるのは、アキちゃん自身のモノローグや語りすぎ感がないからなのである。「距離感」をもって人物たちを眺めることができるからです。

もっというと、宮本信子ふんするなつばっぱ自身にも「萌え」られるのです!
なぜなら、彼女のナレーションは、彼女自身の「心の声」はあまり代弁していないからです!
ことの顛末の説明や、他の登場人物の心理は語っても、「自分語り」はしていないからです。

これが、アニメになると、
「物語る」という構成のなかで登場人物がナレーションするのはきわめて稀な手法で(『涼宮ハルヒの憂鬱』は、キョンがナレーションしていたが、実はキョンが一番の萌えキャラだということは、やはり時間を経てようやく自覚されたことであった。それはやはりナレーションをキョンがしていたからだと思うのだ)、
そこはカメラ割りや演出で「物語る」のですが、そこが私にとっては品のあるメディアだなと思うところなのです。

落語にしてもそうなのですが、あまり語り手が押しつけがましくない、という。
アニメと落語の中間に、『あまちゃん』はある。宮本信子という「語り部」によって。

視点と叙述のあり方、そしてそれによってどこに「行間」や「空白」を作るのか。
大学院でも表現論の研究をしていると、視点論はつねに議論されるのですが、こういった二次元、三次元のドラマにも、おなじことがいえるのだなあと実感しています。


5.14加筆
(ナレーション具体例)

posted by: サンキュータツオ | ★コラム | 03:49 | comments(3) | trackbacks(0) |-
学校遅刻してもあまちゃんみてます。
東京ポットキャストのあまちゃん論の話で完全にみなさんの考えが定着してしまい、宮本信子死ぬのか〜と思いながらニヤニヤみてます。
タツオさん自分で映画かなんか作ってみたらどうですか?
タツオさんの話は説得力があり、尚且つ素敵な理想的なオチがついて、達男さんの映画みてみたいですわ。
こんど赤坂行く予定なのでどうぞ宜しゅうおねがいします。それでは
| イマコタラコ | 2013/05/22 12:41 AM |
いつも仕事でイベントに行けないので、7/8法事と偽って仕事休みました。楽しみにしてます。
| ゆっけ | 2013/06/03 8:52 AM |
サニー感、超同意です。絶対クドカンは「サニー」からインスパイアされてると思うんだけどなあ。
| solid63 | 2013/06/16 12:24 AM |









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