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■東京ポッド許可局 第31回配信2008.08.31 Sunday
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祝!リスナー登録7000人超え!
マキタスポーツ、プチ鹿島、サンキュータツオ
の3人による、どんなに流行っても絶対タイトルを噛むラジオ、『東京ポッド許可局』第31回配信。
PCさえあれば、機種・メーカー問わずだれでも聴けますよー★
■【第31回 “タモリ=ジーパン”論】
≪解説≫
先日赤塚不二夫先生のお葬式で弔辞を読み、改めてその存在感の大きさを示した形となったタモリさん。
今回はそんなタモリさんの存在について、休憩時間に局員たちがおしゃべりした内容でございます。
結果、タモリがジーパンであることが判明!
この世紀の大発見の様子は、是非本編を聴いてくださいませ。
ちなみに、本編で話題になっている私の記事については下記。
きっとどこかでこの記事が晒されて、私が何者であるかもわからないままに、不愉快な思いをされた方々が多かったようです。
貴重なお時間を割いていただいたこと、感謝です。
それにしても。
タモリのあの存在感ってすごいのだ。
グラサンしてる不気味なおじさんが、日本のお昼の顔として何十年も司会をなさっている。
そのこと自体が、別の国の人からみたら、「世にも奇妙な物語」なのではないだろうか?
それでいて、普段はあまりにも自然であるからこそ、あのような場での「本物っぽさ」を見たとき、人はギクリとする。ハッとする。
タモリという存在の巨大さに。
ちなみに、昨日の記事に出てきた「イワイガワ」のイワイさんは、タモリさんの付き人をなさっていた方です。
イワイガワの単独ライブには、タモリさんもいらっしゃったそうです。
■問題となった記事
「タモリの弔辞は白紙だったか検証してみた。」
■プチ鹿島局員による紹介記事
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♪チョビ傘2008.08.30 Saturday
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チョビ傘
週末のライブがハネた。
打ち上げを終え外に出ると、バケツをひっくり返したというよりは、間違って蛇口をヒネリすぎたときのシャワーのような雨が降っていた。
シャンプーを持参しなかったことを悔いてしまうほどだった。
ドラマがはじまりそうな、雨だった。
一緒に出演したメンバーたちは、雨の仕事っぷりに感服して一向に軒下を出られない。
たまに閃光を放つ雷は、傘をさす人間をあざ笑うかのように怒号をこだまさせた。
私の相方は、そんな空に向かって怒号を返し、「ふざけんなバカヤロウ!」と曇天に一喝していた。
私は、イワイガワのイワイさんと、意を決して駅に向かうことにした。
私は大きなかばんを二つ、イワイさんはコロコロのついた大きな荷物を抱えていた。
私はコンビニで傘を買い、イワイさんはもともと用意していた折り畳み傘を開いた。
イワイさんの傘は、顔に君臨する「チョビ髭」のごとく、子供用かと思われるほど小さい「チョビ傘」だった。
豪雨は静まらない。
いつもならほんの数分でたどり着く駅までが遠い。
イワイさんと、軒下で休み休み、ちょっとずつ駅まで向かった。
「雨足」というが、あれは雨の量ではなく、雨によって歩くことがおぼつかなくなる人の足のことを指しているのかもしれない。
道中、重い荷物とずぶ濡れの服に疲れきったのか、イワイさんは、
「もうダメだ……」
と言った。
「なに言ってるんですか、死ぬわけじゃあるまいし」
「…そうだね。ごめん。
俺、はじめてタツオさんの前で寝言を言った」
イワイさんの表情はしごく真面目で疲れきっている。
気の毒になって、気持ちよくツッコめないが、それでも私は言った。
「イワイさん、いま寝言って言いましたけど、それ“弱音”って言おうとしましたよね?」
「あ、ホントだ!」
イワイさんは自嘲した。
いや、そこはお決まりの「あー!」で返してほしい。
イワイさんには余裕がないらしい。
「イワイさん、もう少しで雨宿りできますから、あそこで休みましょう」
私は、銀行の前を指差した。
雨宿りをしながら、私は空を見つめた。
暗闇のなか落ちてくる雨が、電灯に照らされてくっきりと見えた。
一粒一粒が、高解像度のカメラで撮影したように、目に降る。
「イワイさん、ほら、ここから空見ると、雨が降ってくるのキレイですよ」
イワイさんは空を見た。
「ホントだ。
ちょっと素敵な気持ちになれたよ」
素敵な気持ちという言葉がなんなのか、聞きたい気もしたけど、もうなにも聞かなかった。
確かに素敵な気持ちだった。
しばらくして二人でまた歩き出し、乗る電車が違うので駅で別れた。
「おつかれっ」
雨のなかたどり着いたイワイさんの顔は、いつもより晴れやかだった。
イワイさんのチョビ傘は、なにごともなかったかのように、元の形に変身していた。
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読みにくい“文章”論2008.08.29 Friday
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読みにくい“文章”論
読みにくい文章が好きである。
長かったり、連体修飾が多かったり、語彙でふるいにかけられたり、知らないことが書いてあったり。
しかし、どんな文章も、決して最初から「読みにくくしてやろう」とは、あまり思っていないはずだ。
読みにくい文章は、読みたい人しか読まない。
読む気のない人は読まない。
読む気のない人、興味のない人にまで読ませようとしている文章を読むと、逆に「話がなげーよ。知ってるよ。」と思ってしまう。
「丁寧」だったり「やさしい」文章は、その分、読みたい人にはいらない情報が多くなる。耐えられなくなってしまう。
自分としても、読みにくい文章を書きたいと思ったりすることもある。
たとえば、このブログでもよくアニメの話とかしているが、アニメに興味のない人のほうが圧倒的多数であることを承知している。
で、ここで私がとる選択肢は二つある。
「興味のない人でも興味をもってもらえるように、わかりやすく書く」。
この方法は王道だろう。一般論として正解である。
しかし、これをするとると、まず、『●●』という作品、これは△△テレビの木曜日の深夜2時からやっていて、こういうお話で、こういうことを狙った作品で、魅力はどこで、…と書かなければならない。
もっというと、私サンキュータツオというのは、そもそも芸人をやっており、ヲタクでもあり、アニメをよくみます、云々の説明が必要になってくる。
「わかりやすさ」はキリがないのだ。
しかし、もう一方の選択肢、
「すでに興味のある人に向けて発信して書く」。
この方法をとると、非常に言いたいことを簡潔に書くことができるが、それを知らない人、興味のない人にとっては、まったく「読みにくい文章」「つまらない文章」になる。
これは書き方の方法論であって、実際に「読みにくい文章」は、「言葉がわからない」もあれば、「概念がわからない」「説明のしかたが複雑」など、いろいろな理由がある。
しかし、ホントに興味のある人なら、どんな苦労をしてでもわかろうとするものだ。
文字が嫌いな人、好奇心の薄い人、もちろんたくさんいる。
しかし、そんな人にまで響くものを書けるとも、自分は思っていない。
読みにくい文章に接したとき、
この人はなにを思い、なにを考え、どこに向けて書いているのか、
そんなことを考えながら文章を読む楽しさがあると思うのである。
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■アニメ会関連ブログ更新情報 8月第4週2008.08.28 Thursday
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楽天ブログ「アニメ会の日替わりアニメ定食」
■サンキュータツオの「ちょこシス」9クール目感想
第104話 ゆりぴょんの別荘
■サンキュータツオのそういえばですけど 08.08.27号
角川書店WEBザ・テレビジョン「日刊ザ★アニメ会A」
■サンキュータツオのぷにぷにコラム
『フェイント死亡フラグ』論
≪解説≫
『マクロスF』にはやられたねえ!
あと『イタズラなKISS』のいきなり四年後にもやられた!
結婚しても、旦那のこと「入江くん」ていう琴子ちゃん、かわいい! 二次元ならアリだよね!
そして、今週は週半ばの木曜日に、アニメ会の『ヲタめし!』(ウェブラジオ)のほうで、急遽特別配信もありました。
特別配信!
■第26.5回 夏コミ振り返りSP
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◎今週の良いニュース 08.08.27号2008.08.27 Wednesday
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とかくこの世は、悪いニュースばかりがニュースになっているような印象を受けますが、「良いニュース」だってもっとまとめて報道すればいいと思う。「良いニュース」という番組を、だれも作らないので、自分で作ってみました。良いことばかりがニュースになってしまう、悪い世の中になりませんように。
さて、「良いニュース」の時間です。
■6歳、捨てられてもたたかれても母をかばった
非道い親がいるもんだ、というよりは、素晴らしい子供がいたものだ!
■ネットカフェ難民に生活費、職業訓練条件に月15万円融資へ
心温まる政策、この15万円を元でに難民たちが協力してネットカフェを作ってみてはどうだろう。
これがホントのネットワーク。
■月亭可朝罰金30万円で釈放「出直したい」
出れたんだ、良かった!
♪おっぱいは赤ちゃんのためにあるんやないんやで〜、に説得力が出てきた。
■コンビニおばさん店員、包丁で刃物男追い返す
逞しい店員がいたもんだ、というよりは、情けない犯人がいたものだ!
どうやら犯人は「オタク」っぽかったようです。
こういう武闘派のおばさんは、コンビニで雇っているのは惜しい。
■上田電鉄別所線:原田さん、18種の動植物あしらう−−車両デザイン
車両の色に、さまざまな想いが込められているという、良いニュース。
おかげで、一両編成だった車両が、二両になるという噂も!
■コウノトリ:1羽、南あわじに飛来 豊岡・郷公園「温かく見守ってほしい」
そのコウノトリは、赤ちゃんを運んできたのだろうか。
多くの子どもが、固唾を飲んで続報を待っています。
■梨泥棒:許さない 鳥取・佐治町の農家らと智頭署、出荷控えパトロール隊結成
20世紀梨を渡さない!というパトロール隊、21世紀になってから結成。
ちなみに、今年の梨はそれはそれは素晴らしい仕上がりだそうです。
ダメだよ、そんな宣伝して犯人を刺激しちゃ!
■子供理科教室:世界で一つだけの乾電池、手作り
子どもたちに手作り乾電池を作ってもらう教室、なんというほのぼのニュースでしょう。
この活動も17年続いているとか。ホントに電池切れしないようです。
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夕焼け2008.08.26 Tuesday
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夕焼け
近頃、雨が続いているせいか、夕焼けを見ていない。
私の住む地域では、定時になるとどこからともなく、「夕焼け小焼け」の曲が流れる。
あの曲を雨天で聴くのはいつも少し残念だ。
夕焼け小焼けの「小焼け」とはなんだろう?
そんな疑問をもつ人も少なからずいると思う。
ひとつは「小」という接頭辞を以って「大と小」という対をなさせるという見方がある。
つまり、ここでいう「夕焼け」は「大焼け」という意味。ということが明らかになっているというか、「公」になっている。
ちなみに、「ハム」と書いて「公」、おおやけと読ませるのを見ると、いつも焼きすぎたハムを連想する。
生で食べれば良かったのに、と思う。きっとこっそり焼いていたらバレてしまった、ということから「公になる」という意味に転じたのだろうと思う。いや、やっぱり思わない。
「夕焼け小焼け」の「小」、「仲良し小良し」の「小」、癪と「小癪」、「小奇麗」、「小汚い」「小っ恥ずかしい」「小粋」「小憎らしい」「小洒落た」「小生意気」「小股の切れ上がった」「小耳にはさむ」…
接頭辞の「小」はリズムを整えるということもあるらしいが、どうにも腑に落ちない。小腑に落ちない。
そもそも「大と小」の対という説も小納得いかない。
この「小」は、私の解釈では「ちょっと」と同義の意味を備える。
「ちょっと」とは、ミサトさん流に言えば「ちょっち」(具志堅も可)、川越ちょこちゃん流にいえば「ちょこッと」、ルー大柴流で言う「ア・リトル」(英語も可)の「ちょっと」である。日本人には馴染みすぎていて、いまは双子であればタイミングまで合わせて三度も言うくらいである。
もちろん、「ちょっと」は「少し」の意味もあれば、「少し」でない意味もある。
「ちょっとこれはひど過ぎる」
過ぎるのに「ちょっと」はおかしい感じがするが、でも言う。日常的に使う。
お父さん流だと「ちょっとそこまで」は「例のとこまで」と同義だ。
「ちょっと」の意味は、ちょっと大きい。小大きい。
と考えれば、「小」=「ちょっと」説でもいけそうな気がする。
「小洒落た」は「洒落る」まで派手な感じがせず、逆に「洒落る」よりも洒落た感じがする。奥ゆかしさが洒落ている。
となると、「夕焼け小焼け」は対、というよりはグラデーションだ。
夕焼け、小焼け、で日が暮れて、ほら、段々日が落ちている。
ところで、じゃあなんでこれに「小」がつかないの?という語もある。
「小焼け」があるなら「小蒸し」「小煮え」があってもよい。ちょっと危険な料理な気もするが。
「小生意気」「小奇麗」があるなら、「小素直」「小不細工」があってもよい。小素直なんかは、引っ込み思案だけど素直なやつにはぴったりだ。小不細工は、整形すればなんとかなりそうな気もする。配慮のある言葉である。
「小憎らしい」があるなら、「小愛らしい」もいける(ちなみに、「可愛らしい」の「可」は元は「小」だったのではないかと私は疑っている)。
「小かわいい」「小萌え」「小萎え」もあろう。「小萎え」は、結局萎えてるの?萎えてないの? 萎えかけかもしれない。だとしたら、恥ずかしくて誰も使わないのが道理かもしれない。
「小粋」があるなら、「小朝」「小三治」だっていていい。あ、いる。
「小無粋」はない。「小野暮」もない。是非「小」と「野暮」のコラボならぬ小野暮を実現させたい。
同級生に、「大野」と「小野」がいた。「中野」もいた。しかしこれはまったく関係ない。でもみんなバカだった。小馬鹿にしていた。小馬鹿にもされた。いや、そこまで言ってない。小鹿、くらいだ。かわいいでしょ?
ちなみに、動詞や形容詞には接続しないだろうか?
「小うるさい」がある。
「小気味いい」がある。
だったら「小静か」「小気味悪い」もあればいい。
教師は
「なんだか、この教室は小静かだなあ」
とぼやけばいい。
ヒソヒソ声で生徒が文句を言うだろう。
「あのバンドのテンポ、小気味悪くていいよね!」
どっちだ。
河東碧梧洞ばりの、自由俳句的行間。アートの匂いまで漂う。
「小走り」もある。「小止まり」はない。そもそも止まっている継続相の動詞には接辞しない。
逆に「大食い」はあるが「小食い」はない。「小食い」ってなんだよ! 一人前半食べるってことか?
しかし「小太り」はある。ちょっと太っている状態。「大太り」はない。失礼だから。言ってももう手遅れだし。
キリがない。小キリがない。
小焼けを見たくなった。
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■アニメ会の『ヲタめし!』 第26回2008.08.25 Monday
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オタク芸人トークユニット「アニメ会」のポッドキャスト、
「アニメ会の『ヲタめし!』」!
いま、ヲタラジでもっとも熱いといわれるこのラジオ、ヲタクの“今”を知りたきゃ聴くがいい!
■アニメ会の『ヲタめし!』第26配信
≪解説≫
なんと!
今回はアニメ版『デトロイト・メタル・シティ』の監督、
長濱博史さんが急遽ゲストでいらしてくださいました!
何回かここのブログでもご紹介している長濱博史監督。
長濱さんは『蟲師』で初監督作品、
私は、アニメ史45年のなかでも、100年に一度の作品だと思っている。
しかーし!
そんな長濱、そう、「世界のナガハマ」の第二回監督作品が、なんとDMCこと『デトロイト・メタル・シティ』である。
地上波ではとても放送できない内容の漫画を、DVDのみ発売という形で作り上げたNAGAHAMA!
なんでしょう、この振れ幅は。
芸人で言えばM−1とかで優勝したその深夜に、ロフト・プラスワンに出てるようなものですよ!
しかもこの『デトロイト・メタル・シティ』、
ギャグアニメとしても極上の仕上がり。
「すごいよマサルさん」「ギャグマンガ日和」「スクールランブル」などにも関わっていた長濱さんだからこそ成し得た、これまた奇跡の作品である。
放送をお聞きになればお分かりかと思いますが、通常24分尺のアニメーションで2〜3000枚描けばいいほうのアニメ、
このDMCは10分のアニメーションにも関わらず、最大8000枚描いているという暴挙!
作画のこだわりは最高のジョークとして昇華され、間違いなく体を削った作品である。
DVDのメイキング映像では、18時間飲まず食わずでコンテに取り掛かる「漢」・長濱の姿が心を打つ。
このメイキング映像も、国宝ものの記録映像である。
アニメーションの現場での真剣な空気、何人たりとも妥協を許さず、命を削って作られたギャグアニメ。
そう、これはギャグだから素晴らしい。
「いいんちょ。」のコーナーでは、家に何百体もあるというアメリカン・トイ、アメトイについて語っていただきました。
そして、アメリカンコミック(アメコミ)にはまったキッカケから、
「アメコミは、僕に鼻の穴を描いていいと教えてくれた。ジンチュウを描いていいと教えてくれたんです」
という珠玉の名言まで。
そう、僕らの顔は、かっこ悪くない! そう思わせてくれたアメコミについて、熱く語っていただきました。
時代を変える者、スタンダードを変えるもの、天才とはどんな人物か。
アニメにご興味ない方でも、この人のすごさが伝わる回だと思います。
是非聴いて☆
写真は、DMCのクラウザー二世に扮し、「資本主義の豚」のコスプレ(というか裸)をしている比嘉モエル氏を足蹴にする長濱博史監督。
見よ、私が「奈良期の仏像」とたとえて止まぬ尊いお顔を!
『デトロイト・メタル・シティ』、
レンタルでもいいので、アニメ見てください!
二時間で全話ごらんになれますから!
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■東京ポッド許可局 第30回配信2008.08.24 Sunday
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〜祝!第30回記念オナニー論〜
マキタスポーツ、プチ鹿島、サンキュータツオ
の3人による、どんなに流行っても絶対タイトルを噛むラジオ、『東京ポッド許可局』第30回配信。
PCさえあれば、機種・メーカー問わずだれでも聴けますよー★
■【第30回 “オナニー”論】
≪解説≫
東京ポッド許可局、
第30回記念、大「“オナニー”論」、聴いてください!
この記念だからこそ、大人たちのオナニー。
男たちのオナニー。
だれも教えてくれないことがある。
しかしだれしもしていることがある。
だからこそそれは「個性的」である。
鎖国時代の日本は、そういう意味ではオナニー国家だった、と言ってもいいかもしれない。
セックスではなく、オナニーの良さというものがある。
むしろ、オナニーのほうが好きという人もいる。
完全なるオナニニストとは、無観客試合にも関わらず、こだわり抜いた快楽の追求がある。
そしてそこに「魅せるオナニー」が君臨している。
そう、まさに孤高のピン芸。
それがオナニーである。
相変わらずのことですが、今回の許可局も、
オナニーのことでありながらオナニーのことではない。
是非、「オナニー」は比喩として受け取っていただきたい。
そう、この東京ポッド許可局は、3人の大人によるオナニー大会なのである。
Q.さて、何回オナニーと言ったでしょう?
■プチ鹿島局員の紹介記事
(五輪の野球論も語っているぞ!)
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おもしろ論文探索 「女性向け二次創作に見られる自己表現」2008.08.23 Saturday
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「おもしろ論文探索」、今回は先日のライブでご紹介した、画期的論文をご紹介。
霜村史織(2006)
「女性向け二次創作に見られる自己表現」
『女性学年報』第27号
この論文は、オタク世界のなかでも「腐女子」と呼ばれる人たちの実態調査、また用語提議などを正確になしているだけでなく、フタを閉じられた「女オタク」の愉しみと主張を、実際に「オタク」である筆者が満を持して放った意欲作である。
これが論文の冒頭。
信じられない一文からはじまる超カッコいい論文である。
「オタクは市民権を得た。しかし、わたしは居場所を失った。」
これが冒頭文!
超カッコいい!
この、「個人的」なことから入る感じ!
歴戦の学者が、晩年たどり着くこのスタイルに、この方は最初に到達してしまっているのである!
要するに、『電車男』とかその後のオタクフィーチャリングによって、オタクというイキモノは知られるようになったが、それは言っても男性の「オタク」のことであって、女性のオタクの実態に関しては、いまだに偏見といわれなき差別に溢れた世界である、と。
したがって私は居場所を失ってしまった!
みんな奇異の目で見ないで! どうかそっとしておいて!
ということを、私は論文で絶叫するゥ!
という論文である。
この腹のくくり方たるやどうだ。カッコいいといわざるを得ない。この人は、本田透先生の『電波男』は読んだだろうか?
宮部みゆきや三浦しおんにも負けずとも劣らない、最強の論客現る!といった感じである。
この論文の画期的なところは、オタクであれば常習的に使用するが、一切辞典の類には載らない語、つまり「やおい」「ヤオイ」「腐女子」「カップリング」「受け」「攻め」という言葉を、見事に、いや恥ずかしげもなく、超クールに定義したことである。
どういう定義だったかは、問題があるので差し控えたい(各自確認していただきたい。感動する)。
また、同人活動をしている作家さんたち(もちろん女性)にアンケートを行い、伝統的に言われてきた、「だれに感情移入して書くか」、そして「好きな人間を主人公をすえるか、否か」といった議論に、見事に応えている!(上の図)
ちなみに、アンケートをとった作品は、「テニスの王子様」と「NARUTO」という、本格的に「わかってらっしゃる」チョイス。『週刊少年ジャンプ』を支える大きいお姉さんたちへの正面突破である!
人類でここまで理屈っぽく、そしてしっかりと女オタクの実態を把握しようとした人がいただろうか?
論文ではたぶん史上初である。
挙句、「総受け」「総攻め」の図まで展開する潔さ!
いやマジかっこいい!
まさか図解するとは!
それまで「アナルセックス」とか「ペニスを挿入する側」とか説明していたのに、結局図解かよ!という…。
ロックってこういうことですよ!
私がはじめてこの論文を図書館で目にしたときの衝撃は、筆舌に尽くしがたいものがある。
ハンパない覚悟とともに、巻末では「現役でオタクです!」という漢らしい発言も!
史織さんという名前はエロゲーのヒロインちっくでありながら、この突き抜け具合は尊敬に値します。
世の中には、こんな論文もあるのです。
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「逆説」論2008.08.22 Friday
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〜「逆説」論〜
逆説(パラドックス)が好きである。
■飛んでいる矢は止まっている。
(極限まで瞬間を切り取っていった場合、その瞬間は矢は止まっている)
■髪の毛が一本もない人はハゲである。
ハゲの人に一本だけ髪の毛をつけてもハゲである。
ハゲの人に二本だけ髪の毛をつけてもハゲである。
…(これを繰り返していく)
ゆえに、すべての人はハゲである。
■「おじいさんの古い斧」は、刃を3回、柄を4回交換していても、
それでも「おじいさんの古い斧」である。
逆説とは、一見間違いに見えるが、真実(らしい)もの、である。
つまり、「直感」的には違和感があるけど、ちゃんと考えると正しい(そうな)もの。
人には、直感と理性がある。
これが私には不思議だ。
他の動物と違って、人間には「理性」というものがあり、論理でもって世の中を変えてきた。
しかし一方で、動物としての本性である「直感」が、少なからず残っている。
いや、「直感」はDNAに組み込まれた経験値、そして生まれてからの経験の集合体、と考えれば、「人間の直感」とて、他の動物と違って「人間的」なのかもしれない。
私は、小さいときに逆説に魅入られた。
論理のおもしろさに心を打たれた。これは直感的なものかもしれない。
それから、私は論理の虜になった。
しかし最近、「直感」のおもしろさにまた魅入られている。
「逆説」のおもしろさは、聞いた瞬間に「ん?」と直感に訴えかえる理屈であるという点だ。
なぜそのような直感があるのか。
そしてその直感のほうが正しいかもしれないという事実。
私にとって「おもしろい人間」とは、「直感」と「理性」のバランスがおもしろい人かもしれない。
「直感」に偏った人間。「理性」に偏った人間。
しかし一番味わい深いのは、「直感」と「理性」が半々の人である。
まず結論や主張は「直感」的に定める。
しかしそれをきちんと「理性」で裏付けする人だ。
「これが正しそうだ」→「論理的に正しいと証明しちまえ」の発想の人である。
昔、パラドックスを考えた人たちは、みんな論理的な人間だったのではないかと思っていた。極端に左脳型の、めちゃくちゃ理屈っぽい人だと思っていた。
しかし、最近になって思うのだ。
もしかしたら、実は「直感的」に逆説を考えて、理屈は後付けだったのではないだろうか?
そもそも、「このパラドックスおもしろくね?」と考え付くような人間である。おもしろさんであることは間違いないと思う。
しかも、昔ギリシャにはパラドックスを発見することを生業にしていた人たちがいたのだ。
コロシアムみたいなところに人を集め、「こういうパラドックスどうだ?」と発表してお金をもらってた人たちがいた。
だれもその理屈を反駁できなかったら、「すげえこいつ!」となるわけである。
コロシアム大喝采である。
なんてライブ、なんてギグがあったもんだ! おとぎ話だ。
レトリックの歴史もここからはじまる。
こんなことを生業にしていたのだから、そうとうのお調子もんであることは間違いない。
聴衆の面前で反駁されても、きっと「てへへっ!」と舌を出してバツが悪そうに退場していただけに違いない。
いまでいえば「芸人」である。
人が思いつかないような屁理屈を、公衆の面前で披露することを職業にしていたのだから。やっていることは、言葉遊びにすぎない。
そんな言葉遊びのなかから、「直感」というものを、論理的に受け止めていた人たちに違いないのだ。
人間には、「直感」があるからおもしろい。
そして、「理性」があるからもっとおもしろい。
と思いませんか?
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