「研究とは、エンタ―テイメントである」
これを持論としている私であるが、この4月2日に、渋谷のヒミツキチラボというところからお声かけいただき、この新たな試みにコメンテーターという形で参加させてもらうことになったのだが、
自分の主催イベントでできなかったことが悔しいくらい、おもしろいイベントでした。
大学全入時代、だれしもが人には言っていない「卒論」を書いたことがある。
むろん、大学に行かなかった人たちや、大学に行っても卒業論文を書かずに卒業できる学部もあるので、必ずしも、というわけではないのだが、
「通過儀礼」としての卒論は、大学卒の人であれば、だいたいの人が経験している。
私はその後、修士論文を書き、博士論文に挑んだ(厳密には挑んだだけで、指導教授が定年してしまったため提出には至らなかった)。
後から考えてみれば、卒論のお手軽さたるや尋常ではないのだけれど、当時としてそれどころではない。
3年生の後半くらいからは「卒論どうしよう」「このまま書けなかったどうなるのだろう」とモヤモヤと頭の片隅で不安がもたげはじめ、やばいやばいと思っていたものの、結局私は5年生になって卒論を提出した。
いまから考えれば卒業論文に対するハードルを勝手に高くしていたのだが、それはなぜかというと大学の先生たちから「卒論は一生残るものだし、生涯ついてまわる」と言われたからだ。
そんなおおげさな、と思う一方、今になって思えば、たしかにそうかもと思う部分もある。
学者でいえば修士論文や博士論文のほうが決定的なものとなるのだが、そうではない人にとっては、社会に出てから「卒論なに書いたの?」と言われることが多い。
一度でも卒論を書いたものがあれば、あの分量のものを自分で調べて、自分の言葉で記述することは、人生ではじめての大仕事、という人も大勢いるのだ。
これを手を抜いてしまうと、その後の人生にも自信を持てず、「逃げてきた自分」に向き合うのに時間がかかってしまうが、
これをちゃんとやりきった人には「自信」をもたらす。人生最後の「学校の試験」的なものでもあるのだ。
ただ、学生を指導する立場になってみて改めて思うのだが、研究のテーマも、手法も、個性が思い切り出ているし、その人のオリジナリティや考え方を如実に表しているのも卒論だ。
そして、法学部だった人が理工学部の人の発表を聴く機会もなければ、文学部だった人が商学部だった人の卒論を、「お手軽に」知り得る機会もない。
このイベントは、そんな「学問」を横断的に、ジャンルレスに、そしておもしろおかしく「卒論」をプレゼンテーションする。
アイドルだってお客さんだって芸人だって、まだ何ものでもなかった時代に、「卒論」を書いたのだ。
このイベントを終えてから、これはすぐどこかの放送局にパクられてしまうかもしれない、と危機感を覚えた。それほどに、いまの私の活動との親和性が高い。
なので、積極的に売り込む。
このイベントは、ヒミツキチラボのイベントであり、類似のイベントは全力でつぶす!
とにかく来い。場所は渋谷道玄坂。
とんでもない、見たこともない空間が広がる。
生きてて良かったと思える瞬間があるはずだ。
いままでの研究人生のすべてを総動員してコメントしたいと思います。
2014.06.03