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飛行機のお茶
飛行機のお茶

飛行機の国内便のなかでのお茶サービスが、気になって仕方がない。

飛行機に搭乗し、離陸し、一段落ついたときから、
いつあれが来るのか、もう気になりまくって仕方がない。

かなりの時間待つのだが、かといって、ほかに集中したいこと、やりたいことがある。
漫画も読みたい。

だが、そういう「自分の作業」に集中していながら、「いつ来るか」を気にするほどのサービスでも、正直ない。
紙コップ一杯のお茶。あるいはりんごジュース。
これが、たとえば、起きてて順番を待っている人には、もれなく1000円札を配る、とかいうサービスなら、待ってもいいかなと思う。
でもそうじゃない。
コップ一杯のお茶である。正確に言うと、CAさんが丁寧に注いでくれるコップ一杯のお茶である。

私はCAさんを無闇にありがたがる体質の男でもない。
コップ一杯のお茶は、仮にお茶を事前に空港で買っておけば、わざわざもらわなくてもいい。その程度のものだ。原価数円くらいのサービスである。
CAさんが注いでくれる、というオプションにさえ全く反応することができない私にとっては、あのお茶は単なるお茶でしかない(無論、完成度の高いメイドさんだったら、話はちがってくる)。
原価だなんだと言うこともみっともないが、とにかく、「そのことを気にする時間」を作るほどのものでないことはわかりきっているのだ。数円払うから、あのお茶サービスの脅迫から逃れたい。

しかし、仮に起きていて、興味をないふりしてても、
CAさんには声をかけられる。
そして私は、「要りません」と言わなければならない。要りませんといいながら、読んでいるBL漫画の表紙を少し隠さなくてはならない。だから、漫画にカバーをしていかなくてはならない。
わざわざ気をつかって、配りにきている人に、要りませんというのも、申し訳ない気持ちになってくる。
なんかこっちが悪いみたいな気さえしてくる。気持ちが重くなる。

そう思いたくないなと思って、安易にお茶をもらってしまうと、今度は「空になった紙コップを回収するイベント」が待ち受ける。そして、そのことに「いつくるかな」ということに、また本当に小さな小さなことだけれど、気を払わなくてはいけなくなる。
しかもCAさんたちは、誠に気遣いが行き届いているので、まだ飲んでいる人なら回収しないし、飲み終わった人のものから回収するわけで、狭い機内を目を光らせて巡回する。タラタラ飲んでいると、こちらがCAさんを待たせてしまっているのではないか、というまた申し訳ない気持ちになってくるのである。たとえ私はお客であっても、CAさんのことを奴隷にようには思うことができない。

なので、ここで私としては、「お茶をもらう」は、ルート選択として、ない。

お茶をもらわない方法には、「要りません」というか、「寝たふりをする」のふたつの方法がある。
「私、お茶要りません」という張り紙を事前にオリジナルで作成しておいて、それを自分の額や座席などに張っておく、という方法もあるが、これはいろいろ失うものが大きすぎるので回避したい。すべってる人みたいに見えたらいたたまれない。

「寝たふり」は楽かと思われるかもしれないが、そのためだけに寝たふりするのもバカバカしい。
寝たふりをするには、ホントに寝ている感じにリアリティを持たせるために、少し前から寝たふりをしなければならない。そして、CAさんが過ぎ去った後も、少し寝たふりを続けなければならない。
寝たふりは、そういう意味で尺をくう。
また、過ぎ去ったあとに起きると、気の利くCAさんがわざわざ気づいて「飲みますか」と奇襲をかけてくることもあるので、この場合は完全敗北となる。

というわけで、残された選択肢は、「視界に、遠くからじょじょに迫ってくるお茶配給CAさんを目視した時点から気にしだして、来たら要りませんと言う」しかない。
このことを達成するために、心をそこに割かなければならない。正直、気にすることは極力少なくしたい。でもこの間の、「いりませんって言わなきゃ」という強迫観念タイムは耐え難い。
お茶のサービスとかマジでやめてくれ、欲しい人の挙手制にしてくれ、と思っているのは、たぶん機内で私くらいなものであろう。私はそう絶叫したくなってしまう衝動を、ギリギリのところで我慢する。
要するに病気なのだ、「最後にお茶が一杯こわい」が、私にとっては冗談ではない。オチてない。
本当にこわい。
だから『まんじゅうこわい』を聴くと、「最後にお茶が一杯こわい」と言っている人を見て、「もしかしたらこの人はお茶が欲しいのではなくて、本当にお茶がこわいのではないか」と心配する。ちっとも笑えない。


私の隣で寝ていたカップルなんか、それまで男性のほうが寝ていたのだが、CAさんがお茶を配りはじめると、女性のほうが彼を起こして、男性もありがとう的な感じで、あのお茶をもらって幸せそうなのだ。
それって本当に、快眠をさまたげてまで享受すべきサービスなの!?
そう思うのは私くらいである。そしてそう絶叫したくなる気持ちを、ここでもグッとおさえる。私のなかの陽の目を見ない気持ちが、こうして蓄積されていく。

隣のカップルを見て、ああ、私はこういう人に生まれたかったと、心底そう思うのである。
自分のリズムを壊されても、お茶のサービスを中心に機内生活を組み立て、ありがたいと思える心を持って、なぜ生まれて来られなかったのか! 私は感謝の気持ちが薄い、いけない人間なのではないか、戦後間もない高度経済成長を遂げた人たちは、こんな感情を持たないのではないか。私は、ホントに面倒くさい! 面倒スカイ!
最終的に、自己反省タイムになるのである。お茶のサービスは。

そういう人を横目に、私はやはり「要りません」と言う。言わなければならない。
その時、心から喉が渇き、手持ちの飲み物もなく、配給を心待ちにできる身体であるというミラクルが起きない限りは、本当に文字通り「ありがた迷惑」な存在でしかないお茶サービス!
しかし、本当に喉が渇いていたら、あんな紙コップ一杯じゃ全然足らない。もっとぐびぐびいきたい。

お茶に罪はない。私はお茶が好きで好きで仕方ない男である。1日に2リットルは飲む。ゆえにいつもお茶を所持している。私の血はお茶でできている。
飛行機会社にも罪はない。よかれと思ってやっているサービスだ。しかも乗客全員の命を預かり、空を飛ぶというウルトラCを達成しつつ、お茶を配る、というささやかなサービスまでする余裕を持っている。そして圧倒的多数の乗客がそのサービスを享受する。

私だけが、いけない子になった気がする。
不思議な国に迷いこんでしまった心持ちになる。
毎度毎度、どうしたらいいかわからない。ただただ、困惑するだけなのだ。


こんな小さくてくだらないことて立ち止まってしまっていること自体、悔しくてならない。
私は小さい。

しかも、「要りません」と言ったとき、なぜか大人になったような気がしている自分が信じられない。
焼肉屋に行って、ご飯を食べないくらい「大人」な気分になっているのだ私は。浸っている。
どこまで幼稚な大人観なのだろう。

そもそも、こんなに文字数を費やして語るべきことではない。

2011.08.10
posted by: サンキュータツオ | ★コラム | 02:43 | comments(5) | - |-
★策士、策に溺れる
策士、策に溺れる

「策士、策に溺れる」という言葉がある。

なにかを成し遂げようとする目的のために、策をろうする者は、机上の空論にばかりとらわれて、策にとらわれるあまり失敗をする、
という、いわば、狡猾な策士を愚弄する言葉である。

私はこの言葉を聴くとき、
この策士は、幸せだったのではないかと思う。

策士は、策が好きなのである。
評論家が評論という表現形態が好きなように、
画家が絵という表現形態が好きなように、
策を練るということが、もはや表現ともいっていい、目的化してしまった手段なのである。

なにかをするときに、
ああだこうだ、考える。
それこそが好きなのである。

よくみなさんの周りには、
家計をつけて、今月はいくら節約できた、と満足する人がいるかもしれない。
節約や家計をつけることは、
生活をやりくりするという目的のための手段であるのだか、
節約家は、なにを隠そう「節約」が好きとしか思えないのだ。
節約自慢とかしたりして。

節約が目的化しているのが、節約家のおもしろいところである。

料理をするのが好きな人のなかには、食べるのは普通、という人がいる。
料理が目的化している。

私は、この「手段」の「目的化」こそが、人間のおもしろみだと思っているし、芸人としても、挑み続けたいテーマである。
というか、手段が目的化している人は、笑える。
私の「おもしろい」はそういうところにある。

策士は、なんらかの勝負のために、策を練る。
しかしなによりもまず、策が好きなのだ。

方法論フェチ、手段フェチ、理論フェチ。
机上の空論マニアなのである。

だからこそ、その自分が渾身の力を注いだ策で失敗するのは、本望なのではないか。
「そうか、この方法だとこうして失敗するというデータが得られた!」
とか思って、嬉しいのではないか。

学者はよく、自分の理論をもとに予測した答えが、裏切られることを喜ぶ。
あるいはまた、自分の理論をもとにしてなにかを明らかにしたことで、また新たな謎が出てくるのを喜ぶ。
気持ち悪い性格だ。

策士もこれとおなじで、策に溺れることができたなら、どんなに幸せかと思うのである。
策に熱中することはできたのだから、それすらできない状態より、最高に幸せなのじゃないだろうか。

同時に、この言葉を、理論フェチをバカにするために使った人は、
よほど想像力のない、脳みそ筋肉な人だったのではないかと思うのである。



2011.07.29
posted by: サンキュータツオ | ★コラム | 01:49 | comments(2) | - |-
絵が描けない
絵が描けない

私は絵が描けない。

人間の顔もかけない。
模写してもかけない。
トレーシングしてもうまくいかない。

絶望的に絵が描けない。
絵が描けたらどんなにかすばらしいだろう、
自分のイメージを絵にすることができたら、
どんなにやりたいことができるだろう、
そう考えるけれど、
練習しても
子どもの絵にもなっていない。

浜ちゃん以下である。
たまに殺人犯とかこういう絵描くよね、とか言われる。
それくらい下手である。

我が愛すべき相方、居島一平は絵がうまい。
非常にうまい。
下書きなしで描けるし、似顔絵なんてホントに特徴をうまくつかんでいる。
描いているものが筆ペンであるし、モチーフもグロテスクなので、
特殊な画風であるが、それはそれで「文体」を持っているように思える。

アニメの原画さんなんて、
下書きしないでも、
どの角度からでも絵が描ける、
人の動きも頭のなかで構成して描ける、
ホントに神様だ。
私からしたら信じられない。


しかし、同様に、
世の中には、
文章が書けない、
うまくしゃべれない、
という人がいる。

イメージとちがうようなものを書く、
あるいは、
思っていることとなんか違う表現になってしまう、
そんな人たちがいる。

おそらく、そういうじれったさは、
私が絵が描けない、というのとおなじだろう。
(むろん、私はうまく文章が書ける、思い通りにしゃべることができる、とも思っていない)

また同時に、
絵がうまくても、「自分らしい絵が描けない」
文章がうまくても、「自分だけしか書けない文章、が書けない」
しゃべりがうまくても、「自分だけの伝え方ができない」
という人もいる。

あるいは、
それらは万遍なくできても、
人の心を動かすことができない、
または、
相手がのぞむ表現ができない、
という人もいる。

たとえば、
相手のことが好きでも、
「好き」と伝えることがかならずしも正解ではないわけで、
自分らしく表現しても、相手の心を動かせなかったり、相手の状況に合わせた表現が考えられない人もいる。

つまり、
私が絶望的に絵が描けないのは、
こういうことをわかるためだったのではないかと、
自分を納得させている。






posted by: サンキュータツオ | ★コラム | 01:13 | comments(3) | - |-
マンゴーロール
マンゴーロール

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Cafe de CRIE のマンゴーロール。

うますぎて思わず写真撮ってブログにアップしちまった。

でもマジで上手いんだってば!
これからのスイーツのテーマは「爽やか」と「甘味」。
ベットリ甘いんではなく、後をひく爽やかな甘み!

セブンイレブンの贅沢ロールケーキ(フォークで食べるやつ)と双璧。


土曜日の深夜やる
『コレカミ!』
のオールナイトイベントの仕込みで、池袋テアトルダイヤに寄った帰りに。


マンゴーの、フルーツとしての潜在能力は計り知れない。
生まれて初めてマンゴーを食べたときより、日進月歩でうまくなってる気がする。
マンゴーにも技術革新があるのだろう。
マンゴーに関してはデニーズがその可能性を掘っているので、これからも見守りたい。
posted by: サンキュータツオ | ★コラム | 17:58 | comments(2) | - |-
桜の声
桜の声

先日、うちの近所の家のおばあさんが亡くなったそうだ。
そこの家には大きな桜があった。
家の屋根よりはるかに高いその桜は、今年も満開の桜を咲かせていた。

おばあさんが亡くなって、今週すぐに家が取り壊された。
長く清水町にある大きな家だったが、跡形もなくなるまで3日だった。

その桜が切られるとき、チェーンソーの大きな音と、桜の大きな悲鳴が聞こえた。

今日、更地に残った、最後のもの「桜の切り株」が巨大トラックに乗せられていた。
切り株の断面は、二畳分くらいあった。
根はそれ以上である。


更地にはなにもなくなった。
小雨が降っていた。
posted by: サンキュータツオ | ★コラム | 14:36 | comments(5) | - |-
雪の止んだ朝 「雪夜訪戴」
雪の止んだ朝 「雪夜訪戴」




東京に降り積もった雪も、明け方には止んだ。
いまは曙である。

漱石先生は、
「I love You」
という英語を、日本語に訳したとき、
「月が綺麗ですね」
と訳した。有名な話である。

素敵。
漱石先生は、おもいっきりロマンチストです。
「別るるや 夢一筋の 天の川」
なんて有名な句も、そういうロマンチストな一面が出ています。

漱石は漢籍に多大な影響を受けたことは有名ですが、
話のついでに私の大好きな月の漢詩をひとつ。

中国の書家、王義之(おおぎし)の三男に王徽之(おおきし)という方がいらっしゃいまして、その方は漢詩のなかで、

雪の降った日、王徽之が真夜中に目を覚ますと、雪は止み、空には大きい月が現れていた。空気は澄み切っていた。

彼はあまりに美しい月に感動して、
お酒を飲んで、左思の詩をよみ、それでも飽き足らず、
大親友の戴逵(たいりく)のところに行って、一緒にこの美しい月を見たいっ、と思いつき、
召使と一緒に、すんごーく長い距離を船で彼のところまで行ったそうです。
結局、着いたときには明け方になっていて、
興が冷めて門のところまで来たのに会わずに帰ってしまうという、酔狂な詩なのですが、

「月が綺麗ですね」と訳した漱石先生の、「月は大好きな人と一緒に見たいもの」という発想の基には、こうした漢籍の素養があるからである、と、大学の先生がおっしゃっていたのを思い出します。

書き下し文
「王子猷、山陰(浙江省紹興)に居りしとき、夜大いに雪ふる。眠覚めて、室を開き、命じて酒を酌ましむるに、四望皎然たり。因りて起ちて彷徨し、左思の招隠詩を詠じ、忽ち戴安道を憶う。時に戴は剡{セン}(剡溪)に在り。即便ち夜小船に乗りて之に就き、経宿して方て至る。門に造{イタ}りて前{スス}まずして返る。人、其の故を問うに、王曰く、〈吾本{モト}興に乗じて行き、興尽きて返る。何ぞ必ずしも戴を見んや〉と。」

東洋人が「月」に惹かれ、極上の美を最愛の方と共感し合いたいという欲求と感性が、こうして現在の我々にも脈々と流れていることに、なんだかいたく感動しました。

先日、照明の第一人者の方がラジオで話しているのを耳にしたとき、西洋では「月」の明るさ、美しさはむしろ「不気味なもの」の象徴だったそうで、「美しい」という感じる感覚はあまりなかったようです。言われてみれば、狼男なども満月に反応するわけで。

ちなみに、
この王徽之さんのエピソードは、
「雪夜訪戴(せつやほうたい)」、あるいは、王徽之の字、子猷から「子猷訪戴(しゆうほうたい)」と呼ばれており、昔から山水画の有名なテーマだったそうです。
日本に移入されたときには、大親友と会える、という結末に変更されるらしいのですが、これまた日本人らしい優しさじゃありませんか。

簡単な話の
概略はこちらに

漱石先生は、絶対目を通しているはず、とのことらしいです。

雪が降り、そして積もり、テンションがあがって、思わず、4年くらいまえの個人日記から抜粋してきました。
なんたるBL。

月が綺麗ですね。
posted by: サンキュータツオ | ★コラム | 06:21 | comments(10) | - |-
筆圧について

筆圧について

こんな私にも、お手紙をくださるファンの方なんかもいたりして、
直筆の手紙というものはいいものだなあと思うわけです。

ペンで書かれた「字」というものには、筆圧だったり書き癖だったりもあったりし、個性もあって、味わい深かったりもする。これはだれしもがそう思っているからこそ、きっと手紙というアナログな文化が残り続けるのだと思う。
これは、もっと言うと、「記号としての字」以外の情報が、手書きの文字にはあって、
どのような紙にどのようなペンでどのような形の文字を書いているかってことなど、デジタルにとっては「余計な情報」がいっぱいあるからで、
でも人はそういう「余計な情報」があってはじめて、「わかりやすい」と思う。

大学に学生として在籍していたころ、授業でたまに作家の直筆原稿のコピーを見る機会があり、大変感動したものだった。
いまの作家は、よもや直筆原稿なんていう修正もしにくい手段は取らないのだろうけれど、
原稿用紙しかなかった時代には当然原稿用紙に文章を書いていたわけで、
本当に「記号としての文字」以上の情報がたくさんつまっていておもしろかった。

なかでも印象深かったのは、井伏鱒二の原稿で、いまでいえば、原稿のマス目のなかで「ぷにぷに」した、「萌え字」ともいうべきかわいい文字が、淡々と、本当に整然と並んでいるのである。
その日の気分によって、文字が大きくなったり小さくなったりとかもなく、
この人は本当に穏やかな、動かない気持ちで原稿用紙に向かっていたのかなあなんて思ったりした。

私が日本で一番好きな作家である内田百里離┘團宗璽匹法∋嫋△涙石の原稿を目にしたときの話がある。
原稿の上のほうに、鼻毛が整然と並べられているのだ。
行き詰ったときに、鼻毛を抜いて、難しい顔をしながら涙目になって、几帳面に原稿に鼻毛を並べていたのかーと百里夢想する。
その百里頬┐┐襦どんな構図だ。

一方で、私が専門にしている文体論では、文章心理学というジャンルがあり、これは波多野完治先生などが開拓した分野でもあるのだが、
「記号としての文字」からでも、その人の「人となり」は充分すぎるくらい出ている、という考え方である。
で、分析すると出てくる。書き癖、個性、思考法。これがまたおもしろい。

つまり、「記号としての文字」にも充分個性が出ているけれども、
手紙とか直筆原稿は、それをよりわかりやすく、ビビッドに、「情報過多」なくらい、想像力のない人にとっても思いを伝えるツールになっている。
正直、このちがいは、「ラジオ」と「テレビ」くらいちがう。
情報量が圧倒的に、手紙には多い。

で、筆圧の問題である。
筆圧というには、直筆のものに出るものだが、
私は、ブログとか、活字化された文字とか、「統一規格」に落とし込められた文章にも、
筆圧はあるのではないかと最近思うようになった。

発表された、書いた文章を削除したり、書き直したり、打ち消し線を入れたり、
修正の仕方にもいろいろあるけれど、
修正の仕方ひとつとっても、その人の「筆圧」ってわかる。
ここで、筆圧というのは、思いの強さであったり、自分の発言への責任のあるようだったりもするわけなんだが、
こうした統一規格のなかでは、
その筆圧がわかりにくくはなっている。
受け取る側にとっては、「おなじ筆圧」に見えてしまいガチなのである。
おなじ文字だから。

だけれども、なかには、おなじ文字のなかにも、筆圧の濃淡をかぎ分ける能力のある人がいて、
要するに、読み手としての「自立した思考」がある人がいる。

そういう人たちを信じる方法があってもいいと思う。
人はそれをマイノリティだというかもしれない。
しかし私は、この際マイノリティだとかマジョリティーだとかいう二分法にあまり興味がない。そういうことをいう人の立ち位置がわからない。そうじゃない、その人が、どういう人なのか、ってことだけが問題なのだ。

ネットは顔が見えない、なんて紋切り型のこと言う人がいるけど、
だいたい見える。どんなところになにを書く人なのかというところも含め、だいたい見えるもんなのである。

芸人は無責任なことを言って許されるはずの人種である。
でも、私は、無責任に、筆圧の濃い人でありたい。

米粒写経ってそういうコンビなんだなって思う。
米粒に写経するくらいですから。直筆系なんですよね、体質的に。

2.14

posted by: サンキュータツオ | ★コラム | 14:22 | comments(3) | - |-
私が観たM-1グランプリ2010(4) 各組所感 後編

私が観たM-1グランプリ2010(4) 各組所感 後編


朝日を見て、急速にやる気がなくなったので放っておいたのですが、早く書けと一部でせっつかれたので一応書いておきたいと思います。

相変わらず、たいそうなことは書きません。語る前提としては、前記事

私が観たM-1グランプリ2010(1) 前置き 

私が観たM-1グランプリ2010(2) 各組所感 前編 (カナリア、ジャルジャル、スリムクラブ)

私が観たM-1グランプリ2010(3) 各組所感 中編 (銀シャリ、ナイツ)

を参照してくださいませ。

▼笑い飯
「だいたいわかったからやらしてくれ」
4分13秒 笑いの数33回(うち拍手笑い3回) 668点 
「サンタクロースネタ」

ご存知の笑い飯のプログラムのなかでも最終形態とも言ってもよい、 「鳥人」とおなじフォーマット。
たしかに、去年を上回ることは難しいかもしれないが、かといって下回ることもできない。したがって、こうしたネタのチョイスは、必然でもある。「おなじ」を出せば、大きく下回ることはない。
笑い飯は、他のコンビとは背負うものが大きすぎるし、それを評価にどうのこうの言うのはおかしいかもしれないが、大きなプレッシャーのなかで、暖かい雰囲気に迎えられ、演じきったネタ。
「ない/ない」と「ない/ある」の微妙なラインまで着手することになった、このWボケシステムの完成形の2本目と捉えたほうがいいだろう。笑い飯がこのネタを1本目にもってきたことが、出し惜しみをしてはならないM-1という舞台を知り尽くしたチョイスだったろう。

このシステムの「最終形態」と私がいうのは、良かったら過去記事をご覧ください。

M-1グランプリ2009 9組のやったこと (前編)

「いままで出続けてきたこと」には、プラスもマイナスもある。
しかし、それはいままで出ていないコンビにもプラスとマイナスがあるように、実は同条件なのだ。
インパクトという意味では薄れているかもしれないが、彼らはいままでの蓄積をうまく利用することもできる。そしてそれをやった。
また、仮にいままでM-1を見たことがなかった人が、今回の「笑い飯」のネタを見たら、やはり「なんだこれは!?」というインパクトは残ったろう。
むしろ、それはいままで「ガンダム」や「エヴァンゲリオン」を見たことがないことと似たようなもので、私は本当に、劇場版でエヴァをはじめてみた!という人に感想を聞くように、今年はじめて「笑い飯」をたまたま見ちゃったおばあちゃんとかに、詳しく話を聴きたい。

何度もネタを見ると、笑い飯のネタは何重にも笑いの「保険」がちゃんと仕込まれていることに感動する。
どんなに反応がなかろうと、最後に必ず笑ってしまうような一言を仕掛けているのである。
「明日雨が降るねえ」なんかその典型なような気がする。
考えに考え抜かれたネタだと思う。
「進化度」でいえば、ナイツが見せたプログラムの進化ほどは、進化がなかったように思うが、なにせ9年出ているのだから仕方あるまい。それでもこのシステムは画期的だったし、このコンビはM-1の隆盛を象徴する存在だった。

よほどおおしくじりをしなければ、今年の優勝は笑い飯で、後年多くの人が納得をする。
それほど彼らは愛された。
ボケ交代というシステムがあるので、漫才でなければならない必然性は保証されてもいる。
笑い飯は、最後まで無冠というキャラと、最後で優勝というキャラ、双方がありえたので、結果は結果でどちらでも良かったと思っている。
彼らには、これで終わってほしくない。煽りVにもあったように、「義務教育は今年で終わり」という言葉を残した彼らには、20年後でも漫才をやっていてほしい。


▼ハライチ 
「ぬかみそのケーキ」
4分02秒 笑いの数34回(うち拍手笑い2回) 620点
「〇〇の刑事」

ハライチに関しては、こちらを参照してください。

ハライチの発見 〜今月の『GetNavi』裏話ブログ〜
M-1グランプリ2009 9組のやったこと (中編)

このシステムも、まだまだノビシロのあるプログラムで作成されているので、私個人としてはM-1決勝にふさわしいコンビだと思います。

昨年と比較して、今回新たに上乗せしてきたのは、
ボケに「縦の関係」を盛り込んできたことだと思います。テンドン的な。
たぶん、私の連載『ゲットナビ』の連載を読んだんでしょう!(妄想)

「笹かま」「チーズ」「ぬかみそのケーキ」などの単語は、別お題の時にも顔を出し、後半のたたみかけに寄与している。
こうして、ネタの配列順序に、必然性が出てくると、このハライチのシステムは完成度が高まる。
ちなみに、
今回の「AのB」の形は「ベテラン(A)の刑事(B)」であった。
そして、A’、B'をそれぞれ出していき、助詞「の」にも変化をもたせた配列。
配列順は下記のとおり。

01「ベテランの刑事」
02「インテリな刑事」
03「冷酷な刑事」
04「スケバンの刑事」
05「ほろよいの刑事」
06「下痢気味の刑事」
07「ニコラスのケイジ」
08「ぬかみそのケーキ」
09「笹かまのブーム」
10「ふでばこにチーズ」
11「おさえめのビーム」
12「ひとりだけビーフ」
13「笹かまのセール」
14「下駄箱にチーズ」
15「どくぐものポーズ」
16「鉄なべでバーン」
17「みつあみのボーズ」
18「笹かまの映画」
19「鍋蓋でペーん」
20「肌荒れにいーの」 ぬかみそのケーキ
21「傷口にいーの」 ぬかみそのケーキ
22「ヘルニアにいーの」 どくぐものボーズ
23「足早の夫婦」

01から03で「線」を作る。「普通」をここで構成。
04あたりからズラシに入る。A部分が変なものになっていく。
07でB「刑事」が「ケイジ」になり、B部分も変なものになっていく。
09で出てきた笹かまは、13と18で回収。ここで縦の関係。
同様に、10で出てきたイジメを連想させる「チーズ」は、14で再度登場。
16「鉄なべでバーン」があるから、19「鍋蓋でバーン」がある。「類似」も盛り込んだ。アクションで短いものを織り交ぜる。
20から22にかけては、ぬかみそのケーキ、毒蜘蛛のポーズが、ノリ部分に登場。縦の関係。
ぷよぷよを消していくような作業になる。
「笹かま」のように、話が繋がっていくものがあったのは、必然といえば必然の帰結であろう。
今後は、どのフリも結局はひとつのお話として展開されていくパターンもあってよい。
また、
フリ側が、ノリの芝居に乗っかるという手もある。それが審査員が求めた「変化」だったかもしれないが、この形は一度試したりとかしているのかもしれない。
ただし、見た目にわかる改良点をどこかに用意するのであれば、それもまたやってみる価値はあるかもしれない。
でも、かなり受けてましたよ、このコンビ。笑いの数も多かった。笑い飯との相対評価だとすこしかわいそうな部分もありますが。
よく考えてほしいのですが、このネタでここまで違和感なく見られるのって、リズム感がものすごく必要ですし、表現力、展開力がものすごく大切です。
それがよくできているからこそ、アラが見えてくる。でも、できていることをもっと評価する視点があってもいいだろう。

ただ、とにかく、このコンビはネタの締め方が雑である。
22で毒蜘蛛のポーズやって受けたら、「もういいよ」で終わってもよい。ノリツッコミだった、という段取りを示して落とす必要はない。
まだまだ進化の余地を残したままなので、もっとその過程を見たいコンビである。


▼ピース
「おしるこおかわり」
3分31秒 笑いの数20回(うち拍手笑い1)
「言葉の発音ネタ」

発想はコント出身者っぽい。けれども漫才としてはオーソドックスの形を選択している。
吸うものは吸って発音する、
なめるものはなめて発音する、
静かなものは静かに発音する、
速いものは早く発音する。
狙いはわかる。この着想こそ、このコンビの独創性である。

あとはルーティーンである。
もちろん、 「シェイク」「おしるこ」などの「縦の関係」も盛り込む。これは保険として絶対手を打たなければならない。
ただ、前半のフリをひっくり返し、「関係性」まで見せたジャルジャルの思惑とは別次元で、うまく漫才を装丁することに終始したような形になった。
あえて言えば、綾部さんの良さが出ていない。この人はもっと笑いの取れる人である。これはおなじツッコミとしての意見でもあるが、綾部さんは又吉さんを活かすことに専念していて、自分の良さを置いていった。これは、なぜ「綾部」ではなければならないのか、という問いに帰着する。
漫才は、「その2人ではなければならない」ことが、ルーティンを選択したときに問われる。
銀シャリやナイツはその点、ツッコミとしての存在感と各人である意義をきちんと示していた。

ややM-1で戦う破壊力にしては足らないかもしれないが、そう思われるのもまた9番手という順目だからか。
ここからは個人的な思いだけれど、ピースにはもう少し漫才の破壊を行ってほしかった。コント屋が「ちゃんとした漫才」というコントをやってしまった感じ。もっとできるじゃん!
ツッコミ然としたツッコミを選択したことが、はたして又吉さんのよさを活かす唯一の方法だっただろうか。
ただし、完成度は高かった。堂々ともしていた。さすがだと思った。
なにより、品がある。これはもって生まれたものであり、ここで書くべきことでもないものなのだが、このコンビの品はすごい。
女子的な心持でいうと、綾部さんが又吉さんにイライラしている構図は見たくない。怒ってる顔は綾部さんには似合わない(笑)

ある意味視聴率狙いもあった人選かもしれないが、このコンビには期待してしまう部分ももちろんある。だって、もっとできるんだもん!
囲碁将棋が見たかったなあ(突然何!?)。


▼パンクブーブー 
「ブッチーン!って、言ったのよ」

3分13秒 笑いの数15回(うち拍手笑い3回)
「コンビニで犯罪に巻き込まれた」

正直、敗者復活から勝ち上がってきたときは、おいおいまたアンタッチャブルの見事なコピーを見させられるのかよと思ったが、ネタをみて正直驚いた。

私は、今年の1月の『GetNavi』の連載(「サンキュータツオの芸人の因数分解」)で、
パンクブーブーについて書いたとき、このコンビの特徴は、
「一文内にフリオチがあること」
ということを述べた。
文にある暗黙の「係り」「受け」を利用した言葉遊びに近い笑いの取り方のことである。
今回は、そこをまさに特化してきたネタであったので、これは私の連載を読んでいるに違いない!(妄想)

ついにパンクブーブーは「オリジナル」になった。コンテストで戦う「プログラム」を見つけたように思う。これは素晴らしいことだ。昨年のようなオーソドックスの集大成から一転、「このままではいけない」という危機感を、優勝後も持ってプログラム開発に取り組んだ姿勢はすごい。

言語学的な専門用語でいうと、言葉の統語的な側面を逆手にとって手法なのだが、ここでこれを語るのはやっかいなので、私のなかのメモにしておきたい。

いままでのネタだと、たとえば、
「お父さんがいいというまで、私はここを動きません!」
という一文があったとする。
これを、
「お父さんがいいというまで、私はここをあまり動きません!」
という一文にすると笑いに繋がる可能性がある。

これは、文自体が定型化したセリフであることもあるのですが、「あまり」という副詞を用意することで、文末をおかしく見せるという、
「文末の前での工夫」なわけで、ここで「あまり」と「動きません」の「係り受け」に破綻が生じるように仕掛けられている。
(むろん、それを破綻と思わせる文脈は必要)

で、今回はその「係り受け」でも、
「文末を聞いたことで文の前半の意味が変わってくるもの」
に着目していたわけである。

これは、いわゆる「文」は文字でも音声でも「線的」に理解されるものであるという言語の構造を逆手にとったものである。

「私は犬を拾った」
という文に、
「という友達に会った」
を付け加えると、犬をもらったのが、私ではなく、友達であることがわかる。
ここに裏切りが生じる。
さらに「という夢をみた」
を加える……というと、これは現実では起こっていなかったことがわかる。
このように、文の理解は、冒頭から文末へと理解することしかできない。

文はこのように、音声化すると切れ目も明確ではないために、文末でいくらでも裏切りが可能である。
そこに着目して特化したネタが今回のパンクブーブーである。

「……って、タイミングをうかがってたわけだ」
「……ていう表情をうかべてきたの」
「ぶっちーんって言ったんだよ」
「……ていう可能性もあるじゃない」
「……ていう本を棚に戻して」
「……兄ちゃんのいるコンビニにいったわけだ」
「……立ち向かってくれそうな人を探した」
「……いかにも強そうな、酒を飲んでいる爺なんだけど」
「……とかひとりで言ってんのよ」
「……お前に言ったんじゃねえよじじい」
「……よくこんなんでコンビニの店員がつとまるな」
「……と言おうとしたその時」
「……とおもきや」
「……くらいの勢いで」
「……弟のオレももうガマンはできない」
「……そんなことをしている間に俺の自転車が盗まれたって話」

これだけ見ても、一文内での係り受けのバリエーションを相当用意したことがわかるだろう。
このプログラムも、まだだれも着手していなかったものである。
パンクブーブーはこうして、オーソドックスからオリジナリティまでを獲得した、非常に守備範囲の広いコンビになった。
芸風としての局所性から汎用性へと進化したナイツとはちがって、
汎用性から局所性へと進化したパンクブーブーを見れたことは、この大会を通してみても、非常に興味深い、別の進化の形の2パターンだった。

ちなみに、最終決戦は2分34秒と、非常に短いネタであった。
ただし、このコンビに「おなじ形のネタを2回やった」という批判は的外れです。どのコンビもおなじ形です。スリムクラブも笑い飯もパンクブーブーも、独自の「山の登り方」を考案し、スピード勝負ではなく、いままで見たことのない「おもしろい登り方」をしたことは確かです。
それは一概にどっちがいいとか言えません。
だから、私は結果には興味がないのです。

そして、最終決戦の結果はご存知の通りです。
あの結果をどのように受け止めるかは、視聴者に与えられた自由であると思います。


紳助さんのナイツ終了時の「スリムクラブ」発言、また「優勝はスリムクラブでもええんちゃう」発言、そしてスリムクラブに投票したあとのコメントなど、
一連の味わい深い言動などは、また別の楽しみとして堪能しました。


POISON GIRL BAND、囲碁将棋、風藤松原が見たかった。
この3組は、上述してきた「質」の勝負に早い段階から取り組んできたコンビであり、また「独自の山の登り方」を見せてくれたコンビでした。

M-1決勝当日まで、POISON GIRL BANDを勝手に応援してきたわけでありますが、
その一連の応援具合も、
私の「M-1解釈」と「漫才観」に照らし合わせれば、少しは理解していただけると思います。
前置きなども読んでいただければ、わかると思います。

なにを言いたかったかというと、
POISON GIRL BANDが見たかった!
という、
えらいフリの長い結論になりました。

彼らはホントに偉大な足跡を残したと思います。まだ早かったのかなあ。

【関連記事】
まだまだ勝手にPOISON GIRL BAND応援キャンペーン
勝手にPOISON GIRL BAND応援キャンペーン
どうしても見たい!POISON GIRL BAND

【過去記事】
ナイツの「風格」とNON STYLEが優勝したわけ
ナイツとU字工事が決勝に行ったわけ 
サンドウィッチマンがM-1でしたこと 
■東京ポッド許可局 第49回【“手数”論】
■東京ポッド許可局 緊急配信【“M-1グランプリ2008”居酒屋】


過去、
おぎやはぎ、サンドウィッチマン、オードリー、東京ダイナマイト、ハリセンボンなど、コント組が拡張してきた「漫才」というジャンルは、
こうして今年、コント組によってさらなる拡張が行われたと思っている。
最後まで、M-1グランプリはエポックメイキングし、また「新しい笑い」を提案してくれた。
漫才の進化を早めてくれたと思っている。
思い起こしてほしい、10年前に、笑い飯やスリムクラブのようなお笑いが評価されていたかどうか。
それだけでも、すごいことだと思うし、まだまだ開発されていないプログラムに関しての興味を掻き立ててくれました。

そして、「前置き」でも触れましたが、
漫才は、「手数」から「質」へと、見事に移行したかに見えます。
「質」時代のM-1が見られないのはやや残念なところですが、この質と手数のゆり戻しは、まだ何回かあるでしょう。

ただ、ネタ番組がお笑いを「短距離化」し、M-1は4分尺という「中距離」の番組としては唯一注目度の高かった番組です。
それがなくなるということは、ライブでやるお笑いが、いよいよテレビ向きではなくなることを意味するのでしょうか。
そうであっては欲しくないですが、お笑いは短距離走だけではないということを、どこか志のあるディレクターさんなりプロデューサーさんなりが、きっと示してくれる日がくることを信じています。
いま、ライブでのお笑いは、落語とおなじ運命を辿るかどうか、そういう岐路に立っているという危機感を、もっていたいと思います。

M-1グランプリは、「物語」として完結し、次にあるであろう新しいお笑いへの種を蒔いて、終了した。


個人的にいえば、私にとっては相性の悪いコンテストだった(笑)。
M-1はひとつの優秀なコンテンツだけれども、やはり癖のあるコンテストではあった。
芸人たちにとっては、M-1だけがお笑いではないけれど、それでも気になる存在だったに違いなく。

私はあるときから完全に視聴者に徹して、このお祭りを楽しむ方向にいったわけですが、
ホントにM-1終わったから喪失感があるようなことはまるでなく、
それだけ依存しなかった戦略をとったのも、いまは良かったかなと思います。
M-1のためだけに芸人をやっているのでは、10年後、20年後どうなるかというのは、わかりません。

番組冒頭で、「日本一おもしろい芸人を決める大会」みたいな、論点ずらしというか、刷り込みというか、うたい文句としては、仕掛ける側の立場を考えたら私だってそう言うけれども、
決してそういう番組ではなく、
ちゃんとしたルール内で、選考基準があるコンテストであり、それにのっとった人が通過する、ひとつのコンテストに過ぎません。

また、今年のM-1グランプリに関しては、
詳細は、現在無料配信中の、一連の『東京ポッド許可局』を聴いて欲しいと思います。

長文、読んでくださった方々、ありがとうございました。サンキュー☆
一切ボケませんでしたよ。


M-1グランプリを見る前 見た後に読むと、よりおもしろい!「手数」論ほか所収
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◆2011年1月14日(金)オフィス北野 若手Present's
『フライデーナイトライブ』@西新宿・ハーモニックホール
*POISON GIRL BAND 出演決定!
チケットは、ローソンチケット 又は サイトの予約フォームより!

私たち米粒写経の漫才も、見て欲しいです。
日本一おもしろいと、自分では思っております。

posted by: サンキュータツオ | ★コラム | 16:48 | comments(8) | - |-
私が観たM-1グランプリ2010(3) 各組所感 中編
私が観たM-1グランプリ2010(3) 各組所感 中編


相変わらず、たいそうなことは書きません。語る前提としては、前記事
私が観たM-1グランプリ2010(1) 前置き

私が観たM-1グランプリ2010(2) 各組所感 前編


を参照してくださいませ。


【各組所感】

▼銀シャリ
「なぜならただただ無機質な歌やからな」
3分59秒 笑いの数27回(うち拍手笑い2回) 627点
「英語のアルファベットの数え歌」

このコンビは、「オーソドックス」といえば「オーソドックス」にカテゴライズされるのであるが、それも前までのコンビの並びで観られたら余計そう思われるだろう。
順目の宿命として、スリムクラブの残像冷めやらぬなか、CMも入らず、ネタ突入。
何度も見直したけれど、非常に安定感のあるネタで、むしろ受け取る側に、堅実なプレーがファンタジスタの前では地味にうつったのかもしれない。

そんなことはどうでもよくて、このコンビ、そうは言っても「オーソドックス」に一枚上乗せしてきているスタイルとして、「オーソドックス」以上の評価はしないとかわいそうである(かわいそうという表現も、大変失礼なのではあるが)。

関西弁に伝統的な衣装、という外見的要素がオーソドックスのイメージに拍車をかけてしまったのか(このイメージはこのイメージでよいとも思う)、ツッコミの特殊性にはあまり着目されず「うまい」で片付けられてしまってはもったいない。

まず、意外に「なんでやねん!」のような、声を張った「ザ・関西」のうるさいツッコミとは一線を画していた。さも言いそうなのではあるが。
私はこのコンビに関しては、関西風の伝統的漫才に、「おぎやはぎ要素」を盛り込んだツッコミだと思う。私は、観る側になったとき、途端におぎやはぎ原理主義者になってしまうので要注意なのであるが、
まず、「「なんでやねん」というセリフはなかった。

「あとあとロケット鉛筆的に押し出されて ロケット鉛筆難民があふれ出すから」
「ただただ無機質な歌やからな」
「CD5枚をCD-Rに焼こうとしてるやん」
「はい、はいはい、1回止めます」
「ネイティブがすぎるわ」
「なぜならただただ無機質な歌やからな」

ボケによって生まれた新しい意味でツッコむ形や、「はい、はいはい、一回止めます」と言った、淡々とした裁き方には、一辺倒ではないバリエーションの工夫が見られた。また、「無機質な歌やからな」などのツッコミセリフのテンドン、
また、YMCAを小文字で表現したボケに対しては、いろんな角度からツッコミとして料理して笑いを最大限に引き出した。
オーソドックスタイプのなかでも、彼らが決勝の舞台に立った意味がわかったような気がする。
もっと受けてもいい。ただ、笑いは結果論なのだ。スタジオにいるお客さんが、世論をつかさどるのであるわけだし、それは致しかたない。受けているのを観て「受けている」と思う人たちが、大勢いるのだ。逆もまたしかり。


ナイツ
「笑笑ちゃんて何!?」
3分35秒 笑いの数25回(うち拍手笑い2回) 626点
2010年のスポーツ時事ネタ

ナイツの勉強熱心さたるや、度肝を抜かれた。
ヤホー漫才から、「言い間違い」という部分だけを特化させ普遍性を示した昨年から、さらに進化して、時事ネタをやるという歴史の変遷。
時事ネタの効率の悪さたるやないわけだが、このコンビの現時点での最高到達点がここに至ったということで、もう即興性まで手中にしたわけで、うまく初期のヤホー的要素を取り入れつつ、
原点回帰していく様をみたような気さえした。
ここに、スタイルの普遍性と完成を見た。
笑いの数だけ言えば、減っているのは本人たちも知っていることだろう。また、時事ネタはひとつひとつ挙げていくことになると、それだけ尺は取られることも承知で、それでも時事ネタをかけた。
意図はいろいろある。
その意図に関しては、『東京ポッド許可局』の「M-1グランプリ2010見どころ喫茶店」を聴いてください。
とにもかくにも、ナイツは、永遠にネタを量産できるプログラムの発見をし、優勝することなく、M-1を終えた。横綱相撲のような気さえした。
一番驚かされたのは構成力である。
スポーツの話題で、バンクーバー五輪の浅田真央、荒川静香、柔道のヤワラちゃん政界進出、
旗手の三浦皇成とほしのあきの熱愛、白鵬の連勝記録、イチロー10年連続200本安打、
これらを一度やったあとに、
それが全部フリになるような構成を後半に用意したことだ。
「真央ちがい」
「バウアーちがい」
「やらわちゃんじゃなくてわらわらちゃん」
「吐かないほうと」「白鵬」
など、前半に仕込んだものを後半で落としていく展開は、いままでの時事ネタにはなかった。
自分の言ったことすら「間違える」始末である。
もはや、言い間違いではなく、思い違いにまでもっていったのである。
言い間違いは、バリエーションのひとつにとどめ、まだ自分たちのスタイルの可能性を掘り下げている。
そう、塙さんは「言い間違い」から「オトボケ」な形へと拡張し、土屋さんは「コメンテーター」から「翻訳家」へと拡張して、しかもそのツッコミで笑いを取るという形に進化したのである。


このコンビに関しては、
M-1において自分たちのスペックをうまく出し切って、一番プレゼンとしてこの番組を利用し得たコンビかもしれない。


▼終了後、紳助氏「スリムクラブおもしろかった」 「いまいちウケへんかったけど」
など、あまりといえばあまりの発言。スリムクラブ91点 ナイツ92点をつけていた人とはなかなか思えない、進路妨害である。


このあたりで、「漫才ってカテゴリー」がどうのこうのという審査員コメントも入る。
決勝に出てきているのであるし、M-1は漫才かどうかわからないものも漫才に入れてくるからM-1なのである。漫才っぽいかどうかで審査の基準どうの言うのはおかしい。
中田カウスのように、それぞれが確固とした「漫才観」で評価をすればよい。それが審査員の役目である。
本番で「これ漫才なのかどうか」ということ以前に、漫才観を持っていてほしい。客席の意見を代表したのかもしれないが、「新しさ」を牽引したM-1グランプリの意味が、ここにはあったと思う。



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posted by: サンキュータツオ | ★コラム | 09:23 | comments(2) | - |-
私が観たM-1グランプリ2010(2) 各組所感 前編
私が観たM-1グランプリ2010(2) 各組所感 前編


そういうわけで、各組所感ですが、そんなたいそうなものではありません。
どこかで詳しく書いたりしゃべったりする機会に恵まれたら、そこそこたいそうなものを書こうかなという感じで。

語る前提としては、前記事
私が観たM-1グランプリ2010(1) 前置き


を参照してください。これを読んでおくと、より正確に私が今回の大会をどう受け止める姿勢だったかは少しはご理解していただけると思います。


【各組所感】

(ここでもちょっと前置き)
※以下、分数はネタをやっていた時間を手動計測。笑いの数の手動計測(イベント時に発表したものからは大幅に修正してあります)。「拍手笑い」は、拍手が起こるほど受けたところ。各2回計測しました。細かいことを言い出すとキリがなく、これは学術論文でもないので、プラスマイナス1くらいに思っておいてくださいませ。
あと、ちょっとこれに関して細かいことは、書籍『東京ポッド許可局』を参照してください。

※あと、何度も言いますが、あくまで「私見」です。私の「歴史観」と「漫才観」で観た、ネタの所感です。データ以外は。

※私はテキスト分析、定量分析、構造分析を主に行っています。身体表現や言い方、声、間などは、あまり反映させておりません。キリがないので。

ちなみに事前に言っておくと、歴代優勝者の笑いの数平均は、33回。決勝進出者平均でも、たぶん20後半くらいです。



▼カナリア

「♪れんこんアレルギー」

 
3分47秒 笑いの数19回(うち、拍手笑い1) 592点 
「ドレミの歌ゲーム」

このコンビがやろうとしていたことはなんだったか、なぜこのコンビが決勝に選ばれたのか、納得です。
それはやはり「ボケ」でも「ツッコミ」でもない形の笑いの取り方、そしてその題材に選んだのが「歌」。

「ボケっぽい人」と「おちょくる人」のような、どちらもボケと取れる感じの組み合わせです。
少し、序盤に「なにを言うとんねん」「頭叩かれて痛い言うな」というくだりが、ツッコミイメージを植えつけたけど、むしろそれを言った人が「おちょくり役」として笑いを取っていくプログラム。現場としては、ややミスリードになったのかもしれません。ただ、笑いがあったかなかったかは、あくまで結果論です。結果論に意味はないと思ってる。

従来、さまざまな芸人が手を出してきた歌ネタ。「みんなが知ってるものを利用してお手軽に笑いを取りにいける」ものとして選ばれガチなところを、あえてチョイスして、独自性を出した。
このコンビの笑いの取り方は、ツッコミ不在。違和感くらいは表情として出すけれども、「戸惑い」くらいもの。
相手が歌う「はじめてのメロディー」に巻き込まれていく。その「戸惑い」と「巻き込まれ」が肝。
「そんな歌詞じゃないじゃん!」というツッコミは、最後までないのがエライ。

むろん、歌のフレーズのおもしろさだけを頼みにするものではなく、
「ファイティングポーズ」
とか、
「れんこんアレルギー」
「らっきょアレルギー」
「知床アレルギー」
などの「アレルギー」など、
ネタの「縦軸」の笑いも盛り込む。計算高さがある。
縦軸、というのは、時間的前後関係のことをさすのですが、おおまかにいって「テンドン」と理解していただいてけっこうです。

ツッコミ不在な形での構成力。
ただし、本編の歌開始まで1分06秒かかっていて、ちょっと長い。導入は短くするのが時流ではあったかもしれないが、ただ、トップだったこともあり、いろいろ考えたのかもしれない。
感覚的なおもしろフレーズは「自由」であるぶん、なんでもアリになる恐れがあるが、
縦の関係を作り、相手が「巻き込まれていく」という図式で笑いを取るあたりで、そういう不安定さをなくした点が、このコンビの工夫だったと思う。


▼ジャルジャル 
「それ言うたらあかんやん」

3分30秒 笑いの数30回(うち拍手笑い1)  606点
「メタ漫才」

「コンビニの店員」の漫才コントからの、途中からメタな会話に突入。
ツッコミ早いわ。だって知ってるもん。
この、漫才の「暗黙の予定調和」に切り込んだ漫才である。
これはもはや「漫才というコント」と受け取った人も多いだろうし、それでいいと思う。そして私はこれを漫才というカテゴリーにいれることに全く異論がない。
こういうネタを、漫才か、コントか、という分類をすることにあまり意味はない。
「漫才」という形式を借りなければ出来ないコントであるし、そこに漫才である必然性が保証されているからだ。

従来、「ネタに関してのダメだし」メタ漫才は、さまざまなコンビが手を出していたが、構成力、完成度では白眉だった。
ある意味、一番漫才をバカにした漫才であることもたしかで、
漫才を、お互い練習していることを「それ言うたらあかんやん」、
で、最初のリアクションでいうと「リアルすぎるやん」、
である。
ここに漫才のロマン主義も自然主義も否定された。
(※「お笑いロマン主義」「お笑い自然主義」という用語に関しては、説明が長くなるので、良かったら書籍『東京ポッド許可局』を参照してくださいませ。また宣伝ですみません)

気まずさや破壊を好む、とんがったジャルジャルらしいネタだった。
彼らは漫才師でもコント師でもない「ジャルジャル」となった。
この手のプログラムは素人でもありがちで、のきなみ一回戦で消えるが、表現力もあった。
審査員が、今回の決勝のメンバーに込めたメッセージを見事に体現しただろう。順目に恵まれなかったのが残念。個人的には2本目を観たかった。
欲を言えば、リズムが良すぎて、もっと貪欲に笑い待ちしていいところもあったように思うが、それはないものねだりで、このリズム感だからこそなのかもしれない。拍手笑いがあと2回くらいあると、非の打ち所のないものになる。

ちなみに、このジャルジャルのネタに、各審査員が頭を抱えたのは、つまり「これを漫才と言っていいのか」問題だったと思う。
でも、これを漫才といわずしてなにがM-1か。くらいに思った。
なので、中田カウス師匠が79点を出したことは、個人的にグッときた。
これは、ネガティブな意味ではなく、カウス師匠には確たる「漫才観」があり、またそういう「観」がある人が審査するから、審査員の存在意義があると思ったからだ。
横一列の同評価、それも客受け優先とあっては、もはや審査員はいる意味のない大会になってしまうからだ。
ジャルジャルは仕事をした。意見が分かれることをしたというのは、一石を投じた意味で、すごいことをしたと思う。
「それ言うたらあかんやん」を「言う」のがお笑い。

どうでもよいことであるが、私はこの日、ジャルジャルを「今日一番かわいい」と思った。
マキタさんもそうだったようだ。かわいかった。


▼ここで、「敗者復活」枠の発表。パンクブーブーに決定。


▼スリムクラブ 
「私はこうして成長してきました」

3分55秒 笑いの数16回(うち拍手笑い4) 644点
「勘違いに気づかない人」

手数の少ないなかで、一発の「質」を狙う、そういう次代のマーケティングのなかから出たのがこのコンビだと思っている。史上もっとも少ない手数で最終決戦進出したコンビだともいえる。

「勘違いに気づかない人って困りますよね」というマエフリから、

 「すみません…間違っていたら…失礼ですけど…あなた以前…私と一緒に生活してましたよね?」
 「……してません 人違いですよ」
 「ほらあなた 毎晩私にお話してくれたでしょう、この世で、一番強いのは、放射能だって」
 「……僕じゃないです だから、人ちがいですよ」
 「お話してくれましたよ この世で一番弱いのは、ウズラって」
 「……それも僕じゃないです ……だから、初対面ですよ わかってください」
 「なるほど そんなにしらんぷりするなんてあなた まだ自分が犯した罪を気にしてるんですね」
 「あの、私が なにをしたっていうんですか」
 「あなた 私の実家の土地に 勝手に 大きな塔を建てた 
  そしてあなたたまたま塔の一番上の階にいるときに、
  私に見つかって、…(中略)……
  そしてあのとき怒ってしまったばかりに
  たかが大きな塔ごときで
  どうしよう 左手の指全部おります」
 「ちょっとちょっと やめてください」
 「やらせてください 私は、こうして成長してきました」
 「とにかく、左手の指は折らないでください」
 「許してくれるんですね ありがとう」
 「許してください」
 「あなたとの再会の記念に どうぞ」
 「なんですかそれ」
 「土です」
 「ちょっと 逆の立場になって考えてみて
  この状況で、土出されたら、どう思う?」
 「あとは肥料か」
 「思うか!」 もういいよ!



このネタを、普通のコンビなら本編1分くらいでやるかもしれない。
「間」と「表現力」と「声」などの要素が、笑いに参与する代表的な例かもしれないが、それはここでは論じない。
完全に頭のおかしい人を目の前にしたときのリアクション。
ジャルジャルが「リアルすぎるやろ!」と言った、自然主義。
ボケは挨拶からスジフリまでこなし、意図的かどうかはわからないが、ツッコミ側(戸惑い側)のセリフは極力削られている。
戸惑ったあと、ようやく絞りだすように出てくる一言「してません」が効果をあげる。
ここで、「そんなやついないだろ!」という安易なツッコミは当然入れない。
それがこのコンビのオリジナリティーである。最後まで、「声をかけられた人」としての役を全うする。
ボケは、イリュージョン系。表現力で乗り切る。
まさしくコント組からの「漫才の拡張」である。
一発一発の重みで勝負する、ボケのフレーズは、どれだけのデータをとってたどり着いただろうか。そんな奥行きまで感じさせる、山水画のような省略法と「余白」の効果で、笑いは起こる。
凡百のコンビは、こういうことをやろうとして、一回戦ですべり倒す。

歴史的な位置づけでいえば、フレーズのパワープレーという意味では南海キャンディーズっぽさもあり、やっている作業は変ホ長調的でもあり、ただ、結果論ではあるが、ウケた。
「毎晩お話してくれたでしょう、A」の「A」の部分になにを入れるのか、それは理屈ではない、もはやセンス。
そして、ウケたというデータ。一朝一夕のものではない。芸人性を垣間見るネタである。

そう、手数ではなく「質」というのはまさにこのこと。しっかり暴れてくれただけではなく、今後の漫才の「可能性」を示した上で、この最後のM-1に存在してくれたことは、功績が大きいと思う。

笑いの数16のうち、拍手笑い4。
ここに、「量」より「質」の時流の一端が示されたように思う。


疲れたのでひとまずここまで。

M-1グランプリを見る前 見た後に読むと、よりおもしろい!「手数」論ほか所収
■書籍 大好評発売中 2010年売れたサブカル本ノミネート 各種書評絶賛
『東京ポッド許可局 ~文系芸人が行間を、裏を、未来を読む〜』

著者:マキタスポーツ、プチ鹿島、サンキュータツオ、みち、みずしな孝之 (イラスト)
判型:四六版・ソフトカバー
価格:¥ 1,890 発売日: 2010/9/24 出版社:
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◆2011年1月14日(金)オフィス北野 若手Present's
『フライデーナイトライブ』@西新宿・ハーモニックホール
*POISON GIRL BAND 出演決定!
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posted by: サンキュータツオ | ★コラム | 07:54 | comments(0) | - |-